同窓生は今

今人生、真っ盛り ~30期(陸)~(1)

2024.12.16

日の丸を胸に(ホッケー日本代表体験記)

  武安 浩一 (30期 陸上) 20241213_jinsei01_takeyasu_koichi.jpg

 還暦を迎えてのまさかの機会に恵まれることになりました。まさに令和5年は忘れることのできない年になりました。と、言うのはホッケー日本代表として2回の海外遠征をおこなうことになったからです。
  初代表はホッケー5’S(ホッケーファイブ)という5人制の新競技のワールドカップアジア予選でした。これは本来A代表が出るべき大会なのですが、A代表は別の国際試合がスケジュールされており、B代表クラスも国民スポーツ大会(旧国体)のブロック予選で招集できずの中で、急遽編成されたチームでした。しかも相手はワールドカップ予選突破を狙うフル代表です。
 時間のない中、パスポートを準備し、フライトの予約、防具等必要な荷物の準備、休暇交渉をバタバタと進めて羽田から単身中東オマーンのサラーラに乗り込みました。実に28年ぶりの海外渡航です。サラーラはオマーンの中でもイエメンに近いアラビア海側のリゾート地です。案内のあったホテルは三ツ星でしたがシャワーのお湯が出ない等の貴重な経験もできました。
 フライトの関係で他の選手たちより一日早い到着となりましたので、FTX以来のさび付いた英語を駆使?し、ホテルのチェックインを済ませて前日程で行われている女子の応援に向かいましたが、タクシーが捕まえられないためホテルで交渉して(おそらく)白タクで運んでもらうことになりました。携帯片手に100キロのスピードで走る車に異文化を感じましたが、これはチームバスでも同様でしたので向こうでは当たり前の運転だったようです。女子チームも急造チームでしたが元代表選手を中心に国民スポーツ大会予選のない鹿児島県のメンバー、英国在住の高校生といった陣容で、惜しくも負けてしまいましたがいい試合をしていました。
 ルールについては事前に送られてきた資料を読んである程度はゲームを想像していましたが、実際の試合を見てその激しさに驚きました。この競技は11人制サッカーとフットサルのような関係性をもった競技ですが、アイスホッケーのようにサイドライン・エンドラインを壁で囲まれており、そのリバウンドを利用する等高度な戦術性を秘めた競技となっています。ぶっつけ本番でプレーする急造チームとしては不安の多い競技でした。
 今回はGKでの参加なのでイクイップメントチェックのために大会オフィスに向かうと60歳という年齢に一様に「信じられない。」とか「コーチ(監督)ではないのか?」と言われましたが、「I’m sixty. But I’m sixteen at heart!」と返しておきました。他チームのコーチや選手も同様の反応を見せていましたが、ほとんどのチームが同じホテルに滞在していたので食堂で顔を合わせることも多くリスペクトをもって接してくれました。
 驚いたのは、パキスタンの正ゴールキーパーがシャツの交換を申し込んできてくれたことで、交換したシャツは宝物になりました。また、カザフスタンのGKが部屋を訪ねてきて「あなたの方がふさわしい。」と試合のMOM賞(半月刀のガラスオブジェ)を持ってきてくれたことも心に残る出来事でした。このほかにも他国選手やコーチとの交流を深める機会があり、国際試合の奥深さを体験できました。
 初戦のパキスタン戦で日の丸を胸に君が代を歌った時には、胸が熱くなったことを覚えています。女子の試合以上に激しいゲームで、これを皮切りに7敗して終わることになりました。試合では太刀打ちできませんでしたが、アジアの強豪インド・パキスタン・マレーシアほかの本気モードと戦えたので貴重な経験値となり、GKとして全試合フル出場したことでFIH(国際ホッケー連盟)の代表キャップ数7をいただきました。

 ≫ https://tms.fih.ch/people/30838

 2回目の海外遠征は60歳を迎えてマスターズの日本代表に選出され、香港で行われたインターコンチネンタルカップアジア(アジア大会)への参加でした。こちらはマスターズ(40歳以上の年齢別カテゴリ)の大会となりましたが、前回の東京大会まで日本は60歳以上の部より上のカテゴリでしか参加していなかったため以前から60歳になるのを心待ちにしていました。
 しかし今回は下のカテゴリにも参加したのでオーバー50チームに最年長者として参加しました。50歳台前半でチームを構成する他の参加国に対し、50台後半(+60歳)が主力の我がチームの結果は4位(6チーム中)でしたが、元代表を多く有する韓国に勝ったので素直に喜べました。
 またこの大会では、GKとFWの二刀流で出場し、初得点を目指しましたが残念ながら壁を打ち破ることはできませんでした。
 香港といえば中国の影響で政治的に不安視されていましたので、渡航について躊躇していた部分もありましたが、実際行ってみると街は活気があり、思ったより暗い雰囲気はありませんでした。ホテルから試合会場までは徒歩で移動できたので途中のパン屋でエッグタルトを買っていくというルーティーンも楽しむことができました。
 会場はハッピーバレーという広大な競馬場のトラック内にある3面のホッケー場(その他にサッカー場6面、アメフト場1面、サブグランド3面がある)で行われました。ホッケーの国際試合が行われている間もサッカー場では毎日(おそらくスポーツクラブの会員チームの)試合や練習が行われ、ヨーロッパ的なスポーツ文化の一面を垣間見ることができました。また普段使われていない競馬場では週に1回の競馬ナイトがあり、正装の会員と思しき人々がビル状の観覧席に消えていく中、我々は一般人に交じって屋台の出店した屋外観覧席で競馬を楽しみました。ここでも香港のナイトライフの一面を垣間見た気がしました。そしてここで培ったチームの友情が次へと繋がることになります。 20241213_jinsei01_takeyasu_koichi02.jpg

 今年は11月にニュージーランドで行われたマスターズワールドカップに出場しました。今回も50歳以上のカテゴリで選出され約2週間ホッケー漬けの日々を過ごしました。今大会は男女合わせて25か国、131チーム、約3,000人の選手・役員が参加する大規模な大会で、一部のカテゴリは南アフリカ共和国での実施となり、日本はオーバー50、オーバー60、オーバー60IMC(実質オーバー65)の3チームで参加し、試合のない時間には年代の枠を飛び越えてお互いに応援しあいチームジャパンとして世界と戦いました。
 オーバー50のカテゴリには14か国16チームが参加し、4チームごとの予選リーグを行い上位2チームが決勝トーナメント、下位2チームは順位決定戦に進む方式でした。予選リーグは開催国ニュージーランド、マレーシア、スペインと同じプールDとなり3敗して順位決定リーグに回りました。
 初戦のマレーシア戦は昨年のアジアカップのリベンジを果たすべく臨みましたが、ナイターゲームとなったため連携が上手くいかず1QTの3失点が響き1-7での敗戦となりました。
 2戦目は開催国のニュージーランドです。圧倒的アウェーの中、前日の問題点を修正して前半を1失点で切り抜けました。しかし後半ギアを上げてきた開催国に疲労が蓄積し4QT終了間際にはカード2枚で不利な状況でダメ押しされ0-5での敗戦となりました。この試合ではFWとして出場しカウンターからのシュートを放ちましたが力なくゴールイン直前でクリアされてしまいました。少しずつ得点の匂いがしてきたゲームでした。
 第3戦はスペインとの雨の中の試合となりました。2敗同士の試合でしたが序盤に2失点してしまいました。しかし2QTに味方のシュートに空中で合わせてゴールを決め、前半を2-1で終えました。このまま良い展開で3QTを進めていましたがスタミナの落ちた終盤に追加点を献上してしまいました。4QTで巻き返すべくポジション変更で攻勢に出ましたが逆に失点を重ね1-5での敗戦となりました。
 順位決定リーグに回った第4戦はニュージーランドIMCチームと拮抗した一戦でしたが先行され、終盤に1点を返しましたが時すでに遅く1-2の惜敗となりました。20241213_jinsei01_takeyasu_koichi03.jpg

 第5戦は強豪国オーストラリアIMCでした。この試合は守備が安定して序盤は拮抗した試合でしたが、浮き球を押し込まれる技ありのゴールを決められ先制点を許しました。その後も一進一退の攻防を続けましたが3QT、4QTの終盤に1点ずつ決められ0-3の敗戦となりました。
 最終戦はアジアカップで対戦した前開催国の香港でした。香港チームはパキスタン系、マレー系の選手が多い国際色豊かなチームでスキルフルなチームとして知られています。前回のメンバーも残っている強敵でしたが前半は取られても取り返すという攻防でしたが、スタミナの切れた後半には香港のエースにいいように切り裂かれ、反撃のチャンスも少なくなり2-9の敗戦となってしまいました。
 今回勝利はお預けとなってしまいましたが学生時代に出会ったホッケーで日の丸を胸にこのような体験ができるとは思ってもいませんでした。その時期は関東学生リーグとインカレがホッケーの全てで、セレクションに呼ばれた先輩はいましたが代表となった方は知りません。今では当時代表選手だった人たちとも、酒席を囲んだり、ホッケーの未来を語ったりする関係を築いています。

 現役復帰のきっかけはリーマンショックでした。急に仕事が少なくなり時間ができたことから後輩の応援のため学生リーグに足を運んでみたところ、女子部が関東2部の決勝戦で、タイトルを目指してひたむきにボールを追いかけていました。その姿を見て熱い気持ちが蘇ってきました。その日以降、ダイエットし、ホッケーに必要な走力を数年かかって獲得しました。その夏以降は合宿に参加し、毎週末防大に通い人数の少ない女子チームに交じって一緒に練習し、翌日は試合の応援に行くといったサイクルで数年過ごしました。
 当然、自分が現役の頃とはルールや道具に大きな違いがあったので、戦術やスキルも全く違っていました。新規格のスティックを購入したり、ルールブックを入手したりと自分なりのアップデートを試みていましたが、限界を感じてコーチ資格を取得しました。ここでの出会いがその後のホッケーとの関りを大きく変えることとなりました。この時受講した人には各高校、大学の監督や現役日本代表、国際A級審判等錚々たるメンバーがいて今でも親しく付き合っていますが、この時の縁でマスターズのカテゴリでプレーすることになりました。
 今では一般の社会人チームで選手兼監督として関東社会人リーグ1部でプレーし、今期は優勝して東日本リーグへの昇格を決めました。このほかにマスターズ選手として2チームに所属し、国内のマスターズ3大会に出場しています。
 その他、杖球・TwinkleHockeyといった草ホッケー的なミニゲーム会を含めて週末・平日問わずホッケーを楽しみながら次のシンガポール大会(アジア)・ドイツ大会(ワールドカップ)にチャレンジしたいと思います。

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