今人生、真っ盛り ~29期(陸)~(1)
2024.03.21
「ペリリュー島訪問記」
岩村 公史 (29期 陸上)
パラオ共和国は、日本の真南3000キロに位置する緑に覆われた群島の国である。第一次世界大戦後、この地で30年以上にわたり続いた日本の委任統治の形跡が色濃く残り、パラオ語には2000語以上の日本語が息づいている。80歳を超える老人たちは未だに流暢な日本語を操る。国旗は海に浮かぶ月を表すとされるが、そのデザインは日章旗をイメージしていると言われている。この親近感は、日本の委任統治が素晴らしかったことへの感謝に根ざしていると言う。インフラ整備や教育、産業振興において約80年前まで日本とともに歩んだ歴史が、現在も両国の絆を深めているのだと感じる。
しかし、私がこの国を訪れた理由は歴史的な繋がりを知りたいが為だけではない。20年以上前、米国海兵隊指揮幕僚大学に留学していた時、アメリカ人の同級生からペリリュー島での日米の攻防について質問され、答えられなかった自分の知識不足に悔しさを感じ、それ以来、いつかペリリュー島を訪れ、戦史を現地で学び直すことを夢見てきたからだ。
とうとう、今年、令和5年11月、その夢が叶った。ペリリュー島現地ツアーで戦跡を案内してくれたのは、40代の空挺団OBである平野君だった。彼は1年間の空挺団勤務の後、警察に転身し、現在はペリリュー島戦史伝承のために活動している。彼との出会いは何かの縁を感じさせ、お互いに議論しながら水際部から内陸部へと現地研究が進んでいった。戦史の詳細は割愛するが、ペリリュー島嶼戦では内陸撃破を追求し、バンザイ突撃は禁止され、最後の一人に至るまで敵に出血を強いる激戦が繰り広げられた。石灰岩の小さな洞窟を利用した巧妙な陣地構築は、私が若い頃学んだ斜射側射陣地そのものだった。この為、米国第1海兵師団が数日でペリリュー島を占拠すると宣言するも、逆に殲滅され、米国陸軍に戦線の一部を引き渡し、2ヶ月余をかけても作戦目標を達成出来なかったと言う屈辱的な敗北となった。この敗北が米海兵隊にとっての痛切な経験となり、以降もペリリュー島の攻防が研究され、教訓を引き出すための努力が続けられている。
現地研究の終盤、ペリリュー島守備指揮官であった中川大佐の終焉の場所に到達した。そこは石灰岩洞窟で作られた連隊指揮所跡であり、陸上自衛隊の演習時の連隊指揮所に雰囲気は似ていたが、その意味合いは全く異なっていた。中川大佐が自決した場所はそこから離れた奥深い場所だという。周囲には地雷や不発弾が残っているため、その場所には立ち入ることができなかった。平時においては演習が終われば家族の待つ家に戻れるが、戦争では状況終了はない。同時に指揮官は最後にその命を賭して責任を取る。もし私がその立場に立たされたならば、同じように指揮を執り統率出来ただろうか。中川大佐の立場を慮ると、息が詰まってきた。自分自身もゴラン高原やイラクといった海外任務を経験してきたが、本当の試練はまだ訪れていないと感じた。
ペリリュー島の戦いの結果、中川大佐以下の島嶼守備隊は、フィリピン攻略の為の足掛かりを作ると言う米軍の作戦目標を破砕した。そのため、パラオ諸島の戦略的な重要性は失われ、パラオ本島への米軍の地上進行は果たされず、パラオ人の地上戦闘による犠牲はほぼ皆無だった。中川大佐以下の将兵の勇気と犠牲が、文字通り太平洋の防波堤となり、パラオの人々を守り抜いたのである。この事実も、パラオ人が日本人を慕う理由の一端をなしていると感じた。その証左に、現地のパラオ人の墓地には、パラオ人の墓標と共に日本将兵を慰霊する碑が建てられている。余談ではあるが、ペリリュー島にかつて旧日本軍が作った飛行場は、この数ヶ月の間に米軍によって拡張が進められていた。戦後78年が経過し、新たな戦略的な意味合いがペリリュー島に生まれつつあるのである。
ペリリュー島の戦いには後日談がある。中川大佐(二階級特進され中将)の自決された遺体を米軍が発見し、その遺体をご遺族に渡そうとしたところ、奥様は「未だ部下の方が島から帰られていないので、主人は最後です」と、受け取りを延ばされたという。今はその位置も定かでなく、島に残された部下と共に静かに眠っておられると言われている。
命には二種類あると言う。庇護の安寧と怠惰の中にただ生かされている命と危機と緊張感に満ちた生を己の本能と才知のみで生きる命。後者を貫いた生涯こそが存在の意味を勝ち得るのだ。人が見事に生きることは難しいが、私もそのように生きたいと思う。