今人生、真っ盛り ~29期(海)~
2024.03.21
「パプアニューギニアからの便り」
~ 「Know HOW(たて糸)」と「Know WHO(よこ糸)」の関係~
荻原 洋聡 (29期海上)
1 はじめに
今日は2023年9月28日です。先ほど、ウェワクからポートモレスビー〔パプアニューギニア独立国(以下PNG)の首都〕に戻ってきました。退官後、株式会社エヌ・ワイ ・ケイ(日本容器工業)に再就職し、また、隊友会(神奈川県湘南支部)に入会したことから、厚労省・日本戦没者遺骨収集事業に、隊友会枠の1人として、今年3月、 7月に引き続き9月15日~30日間の3回目のPNG現地調査派遣の機会を得ました。明日の帰国を前に、頂戴した御題が「今が盛り」とするなら、ここに至った「今でショ!」 の先は「減衰モードなのか?」ということも思案しつつ、これまでの身の来し方を含めて振り返ってみたいと思います。
2 私の人生経緯(航跡)上の3度のコペルニクス的転回
振り返ると、高校創立記念講演(2年時)で、第1次南極越冬隊長の西堀榮三郎氏の講話に「自分も南極に行ってみたい!!」と瞬時に憧れたことが、29期海上・土木 工学を専攻し、海自・施設幹部の道を歩くことになったと思います。そのため「しらせ」乗り組みの機会は得ませんでしたが、ディブチ活動拠点事前調整チームとして、 4か月間のディブチ勤務(@第1のコペルニクス的転回)等の予想外の体験を伴いながら、機動施設隊司令(海自・八戸)に赴任しました。一冬明けた2011年3月11日の 東日本大震災に八戸で遭遇したことは、人生上2度目のコペルニクス的転回の体験となりました。以降、常日頃からの「防災・減災対策」のみでなく、その効果を左右 するのは、災害等事象発生直後の対応ぶりとなる【応災(災害対応)能力】如何だと現場体験から痛感しその観点・教訓に至りました。退官後は現在勤務中のエヌ・ワイ ・ケイ(日本容器工業)が設立したNPO法人「貯水タンク防災ネットワーク〔Chonet(⇔貯・ネット)〕の出前講座担当として、「ユスフ大佐の防災・応災・減災 セミナー」を主軸に、大震災で痛い目に遭った体験ベースの啓蒙活動を巡航(行)しています(NPO Chonet 貯水タンク防災ネットワーク)。
さて、29期・防大3学年時の冬季訓練で硫黄島研修がありそれ以来、戦没者の遺骨収集の進捗が気になっていました。横須賀総監部施設課長・厚木管理隊長勤務時は、硫黄島・南鳥島の施設維持整備の担当でもあり、幾度か現地に赴きました。その際は、「天山壕慰霊碑」、摺鉢山々頂の「日本戦没者慰霊碑」、「第1・第2御盾特別攻撃隊慰霊碑」、「米国将兵慰霊碑」等への拝礼・献水と、「ふるさと」「里の秋」「Dunny Boy」をフルートで慰霊するようにしてきました。明日を生きたかったのに、たった一度かぎりの人生を、自分の意思に関わらずそれを果たすことができなかった幾多の人々のことを偲べば、その計り知れない犠牲の末に、在り余る恩恵を受けている我々は、そのことに対して何かたいせつなことを忘れ去ってはいないだろうか?という危惧の念が増すばかりです。よりによって世界は、昨年2月末以降、ロシアのウクライナ侵攻という最悪・大愚の現実を目の当たりにしています。日本も真珠湾攻撃で戦端を開いた結果、もたらしたものは何だったでしょうか?約240万の戦没者のうち、未だ112万余柱が未帰還(内約30万柱は海没)で、今回派遣されたPNGには今も約7万柱が野晒しのままなのです。
3 第3のコペルニクス的転回:PNGでの戦没者遺骨収集現地調査派遣
隊友会では、同じ場所へはできるだけ同一人物を派遣する方針もあり、日本軍が降伏調印をしたウェワクでは、今年3月・7月・9月の現地調査が計画され私が派遣される 機会を得ました。
ミッドウェイでの敗戦以降、制海権・制空権を失ったPNGでの戦いは補給を絶たれ、熱帯雨林ジャングルの中で「ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰られぬ ニューギニア」という戦う以前に飢えと病に幾多の将兵が斃れる凄惨な戦いでした。2回目の派遣(7月)時は雨が多く泥濘の中での活動でした。私自身、出国前に89㎏ だった体重が、帰国後は76㎏までに激減したので、当時の戦いの厳しさが如何許りかとの疑似追体験をしました。
コロナで活動中断され再開された3月の現地調査では、2日間試掘チャンスがあり、初日は十数か所試掘するも御遺骨の発見に至らず、2日目は激しいスコールで作業は できず現地ヒアリングで新たな情報を得ました。7月(7日間)・9月(8日間)の現地調査は2泊3日の野営(キャンプ)も実施し、百数十か所を試掘するも御遺骨発見は なく、いよいよあと1時間余りで撤収するという時、飯盒が2つ顕れ、さらに1mほど掘り進んだとき、2柱の御遺骨を発見・収容するに至りました。ここに埋められる 時に見収めた光から80年余を経て、ようやく再び見える今の世をどのように観て想われるだろう?と思いつつ、脆くなってしまった頭蓋骨等を収容させていただきました (合掌)。
4 終わりに
我々が村から埋葬地までジャングルの中を1時間余りかけて向かう途中、幾度か小川を渡る箇所に遭遇すると、あっという間に「橋」ができるのです。村人たちが ジャブジャブと川に入って行き、石を拾い集めて飛び石橋にして、我々がコケないように、自らは水の中を歩き、飛び石を渡る私の両脇を支えてくれます。 全てにおいて献身的な支援をする村の人々総出の支援に頭が下がるばかりでした。終戦間際、柴田陸軍中尉は匿われた村で寺子屋を開き子ども達に読み書きを教えて いました。PNGは長い植民地時代を経て1975年にオーストラリアから独立しました。が、その初代ソマレ大統領は、柴田中尉が教えていた当時8歳のソマレ少年でした。 PNGの人々は大変な親日家だと感じたのはそのような背景もあるようです。
昼間の作業中はひたすら試掘に専念しますが、それ以外の時間は、村の人々、特に次世代を担っていく子ども達との交流を心がけました。その中で、この3回の派遣の 間、私に引っ付き虫で私の荷物を持って道案内をしてくれた12歳のエンディ君には、私の専属カメラマンを勤めてもらいました。最終日、埋葬地を後にして村に戻る途中、 彼がぽつりと私に語りかけた言葉は、私の第3のコペルニクス的転回となりました。
「Yousou, when I will grow up, I will keep finding bones.
(洋聡、僕が大きくなったら、遺骨を探し続けるよ。)」
思いがけない、でもありがたい言葉に息が詰まり涙を堪えました。ただし、心強いサポーターの存在に力づけられますが、御遺骨を捜さなければならないのは我々日本人の 責任です。彼の夢はPNG陸軍に入ることのようなので、いつの日か彼が日本に来て再会できることが今の私にとっての長い夢になっています。
ここしばらくは自分にできること(得意技)を、無理なくできるうちに、さりげなく、ひとつ、ひとつ身をもって、試(実験)してみる楽しさを感じているところです。
それにつけても、何故争いは無くならないのか?今、私の頭、心の中をぐるぐる廻っている言葉にその解決の端緒があるような気がします。それを以て、パプアニューギニア からの便りを閉じたいと思います。
生きとし生けるもの
~ たった、いちど限りの、永遠 ~
【 北海道・知床・キネトコ映画館 】
あなたが 生まれて来たときは、
あなたは 泣いていて
周りは 笑っていたでしょう。
だから、あなたが 死ぬときは
あなたは 笑っていて
周りは 泣いているような 人生を送りなさい。
【 死ぬことが終わりではない アメリカインディアンの生き方 】