前学校長(國分良成氏)に聞く
2022.03.11
「前防衛大学校長の状況報告」
第9代防衛大学校長
國分 良成
防衛大学校長を退任してからちょうど1年が過ぎました。2012年から9年間の勤務でした。当初は、おそらく4~5年で「原隊」の慶應に戻るのだろうと思っていましたが、結果としてかなり長居してしまいました。その間、退路を断った方がすっきりするだろうと、定年前でしたが、慶應にも退職届を提出しました。慶應が嫌いだったわけではもちろんありません。学生時代から40年間、大好きでした、特に学生(塾生)は。
ところが、心底から防大が好きになってしまったのです。何よりも学生の素晴らしさ、それに自衛隊、とりわけ防大卒業生に魅せられてしまったということでしょうか。着任前にも、防大と幹部自衛官にはある程度の接触はありましたが、それはただの接触で、内側まで入り込むものではありませんでした。内側から見た感触と風景は、やはり外から見ていたものとは大きく異なりました。「どうしたら、こういう学生と卒業生ができるのだろうか」、教育に長年携わってきた者としての純粋な問いでした。それが、まさに「ここで挑戦してみたい」との「一念」となり、いつのまにか「久年」になりました。
防大に惹きこまれたもう一つの大きな理由は、槇智雄という初代学校長の存在とその生き方、考え方でした。正直なところ、慶應義塾の大先輩でありながら、わずかに名前に記憶がある程度、慶應では小泉信三塾長という巨人の陰に隠れてしまい、その片腕ともいえる槇先生の存在は慶應のなかでもほとんど知られていません。偉人の陰には必ず別の黒子の偉人がいる、これが歴史の常であります。
私は、防大学校長着任後、槇智雄先生の足跡に強い関心を抱きました。戦後の国難の時期に、様々な雑音があったであろう状況下で、なぜ自身の信念を貫くことができたのか。これに対する答えは、戦中にありました。槇先生は慶應義塾の常任理事(いわば副塾長)として小泉塾長を支え、学校を守り抜いたのでした。しかし時代は戦争、彼の思い描いた学園像は崩れました。戦後は失意のなかにあったと想像されますが、防大という新たな挑戦の機会に出会い、再起を期したのでしょう。彼の夢は防大小原台で再び開花し、見事に今日にいたる防大の基礎を創り上げたのです。
槇学校長はこよなく学生を愛しました。厳父でありながら、慈父でもあったのでしょう。何があっても学生を守り抜く、この点に揺らぎがありませんでした。学生たちは槇先生の愛情を受け止め、それに応えることで学校の基礎をともに創り上げていったのでした。草創期、防大教育に対しては、内外から大きな期待と同時に批判もあったと推察されます。しかし、今日にいたる基礎を築いたのは、槇イズムを死守せんとするその後の学生諸君たちだったのです。
私にとって、槇智雄は防大学校長の師であり、模範でした。能力・人物ともに、私ごときではとても太刀打ちできませんが、在任中、槇先生の存在が防大学校長のあるべき矜持と哲学の拠り所となったように思います。とはいえ、私は槇智雄になることはできません。個性はみな違うからです。防大生が大好きな点では、私も誰にも負けないつもりですが、私には槇先生のようなカリスマ的威厳と包み込むような大人の優しさはありません。
むしろ私は、現代風に言えばもっとフットワークが「軽く」、学生のなかに自ら飛び込んで、自分も学生に同化して楽しんでいくタイプです。慶應の教員時代でも30年間、そのスタイルで通してきました。防大のような「ミリタリー・スクール」で、そうしたことが許されるのか。不安はありましたが、結局、理念を継承することはできても、個性は継承できないのです。
最も心配したのは、防大卒業生の現役自衛官と自衛官OB、つまり防大同窓会の反応でしたが、その懸念はただの杞憂に終わりました。防大同窓会の凄さは、現役のやることに対して、一切口を出さずに見守ってくれ、いったん学校長が決めたことはすべてそれに従うという点でした。それがまさにミリタリー世界の凄さなのでしょうか。往々にして、どこのOBOG会でも、「昔は良かった」と口を出すことで現役を委縮させることが多いのですが、ここはまったく逆でした。現役の応援に徹する防大同窓会、これからもこの精神と姿勢を忘れないでほしいと思います。
私は防大では3つの学年と同期です。学校の卒業では20期相当、しかし防大学校長に「入校」したときは60期が同期、そして退任時は65期と同期でした。9年の防大学校長在任中、防衛大臣は10人、延べで12人にのぼります。防衛副大臣は9人、延べで10人、防衛大臣政務官は22人、防衛事務次官は6人にのぼります。ちなみに、私を次期防大学校長に指名したのは、当時の民主党の北澤俊美大臣でした。
この9年間、防大内では教授から選出された副校長が3人(井上成美⇒渡邉啓二⇒香月智)、防衛省からの副校長が6人、陸上自衛隊の幹事(現副校長)が10人(田中敏明⇒田邉揮司良⇒岡部俊哉⇒森山尚直⇒小林茂⇒岸川公彦⇒上尾秀樹⇒納冨中⇒原田智総⇒梶原直樹)、訓練部長が7人(山下万喜⇒岡浩⇒伊藤弘⇒湯浅秀樹⇒俵干城⇒金刺基幸⇒保科俊朗)、防衛学群長が7人(武藤茂樹⇒金古真一⇒引田淳⇒影浦誠樹⇒坂本浩一⇒中澤省吾⇒北川英二)。皆さん、本当にお世話になりました。心から感謝しています。
いまの私について少し付言しておきましょう。防大と慶應という2つの最高の大学を経験させてもらった以上、それ以外に大学関係に定職をもつことを現段階では考えていません。慶應での非常勤講師も終わり、40年間続いた大学教育は基本的に終わりました。今後は、あっても非常勤講師くらいでしょう。昨年5月から、内閣安全保障局長だった谷内正太郎氏が理事長を務める富士通フューチャースタディーズ・センターの顧問に就任していますが、非常勤職で自由出勤です。ちなみに、防大学校長に着任するまでは富士通の社外取締役でもありました。それ以外に、昨年から読売新聞の読書委員として月平均2冊の書評を書いていますが、今春からは別の新聞の大型コラムを年に2回ほど書くことにもなっています。また、アメリカとヨーロッパの大学や研究機関から、招待講演と短期滞在の招聘もいくつか来ていて、新型コロナが収束すれば、海外に飛び出す予定です。
ということで、結構忙しくしていますが、退任後1年の最大の仕事は、題名は未定ですが、学校長9年の経験を総括した「防衛大学校」についての単行本の執筆でした。現在、ようやく初稿を書き終え、これから編集と校正の作業に入ります。今夏には中央公論新社から刊行の予定ですが、その節はよろしくお願いいたします。
本書を出版したあとは、9年間棚上げ状態になっていた研究者としての生活に戻る予定です。もともとそれが出発点ですので、振り出しに戻ります。特に、専門の「中国問題」は、いかなる国際問題を考えるにも最優先テーマであり、時代の要請でもあります。私は大学2年から約50年、「中国問題」と付き合っており、「時代がようやく私に追いついてきた」などと傲慢なことを考えております。
何はともあれ、防衛大学校同窓会の皆さまとは、残りの人生が終わるまで、親しくお付き合いさせていただければ、これに優る幸せはありません。
最後に、コロナ禍の厳しい状況下で、新たに着任され頑張っている久保文明学校長に対するご協力とご支援のほど、今後ともよろしくお願いいたします。