今人生、男盛り ~25期(陸)~ (1)
2020.01.03
「伊豆市長の実戦記」
菊地 豊(25期、陸上)
私は防衛大学校を卒業するとき、人生の3つの目標を設定した。
国際関係論の卒論でドイツを扱ったことが背景にあったのだろう。ただし、この頃はまだ自衛隊の海外派遣は南極観測隊のみであり、なぜPKOを意識したのか記憶に鮮明でない。
平成5年にモザンビークPKOに司令部要員として派遣された。帰国後の平成6年からドイツへの留学を許され、語学教育の教官に誘われてカントの「道徳形而上学原論」を読んだ。そして、平成12年に在ドイツ防衛駐在官となる。42歳で人生の3目標を達成させていただいたことに、感謝の意を尽くせない。
ドイツでの任務を終え、青森の第5普通科連隊長を拝命した。その後は方面隊の調査部長など幕僚勤務と考えていたが、1年8か月後に師団長から示された異動先は内閣衛星情報センター。「君のキャリアを考えて、これが良いだろうと判断した」との温かいお言葉をいただき、外務省に続く内閣官房への出向となった。
申し分のない異動先であったが、警察・外務・防衛の思惑が入り混じった職場環境が私には合わなかった。ちょうどその頃、生まれ故郷の天城湯ヶ島町は平成の大合併で、修善寺・中伊豆・土肥と合併して「伊豆市」が誕生していた。高校の同級生から言われた「伊豆市が出来たんだから、オマエ、市長やれよ」が背中を押した。人生の3目標は達成した、普通科としては身に余る連隊長も歴任した、そして46歳で亡くなった父の歳を越えていた。よし、伊豆に帰ろう、市長を目指してみよう。
平成19年1月、内閣官房から防衛庁に復帰し、48歳で退官した。復帰の辞令は「防衛庁長官 久間章生」、退職辞令は「防衛大臣 久間章生」。それから一年かけて市内1万3千軒を3回訪問し、靴4足に穴が開き、平成20年4月の市長選挙に初当選した。
伊豆市は伊豆半島北部に位置し、南は天城峠、東は伊東市、西は駿河湾。面積364k㎡もあるが、人口は3万人を切った。私は二代目の市長。観光を中心とする経済は決して悪くないが、人口減少に歯止めがかからない。
市長就任直後の平成20年6月、「人口減少危機宣言」を発した。人口減少対策を焦点にすることで、産業、教育、住宅、福祉など政策を総合化できると判断したのである。「このまちを少し良くすることは難しくない」と安易に考えていたこの頃、その後壮絶な戦いになることは全く予期していなかった。
2期8年で、幼稚園4園・保育園6園を整理し、小学校も5校を廃止した。学校設置は教育委員会の専権事項なので、市長は予算編成権しかないのだが、これで落選しなかったのだから市民もすごい。実は、その先に夢があった。3中学校の統合である。小学校の統合は一つの学校を選んで改修したのだが、中学校は最高の立地に移転して、新築したかった。候補地は修善寺駅と赤十字病院から近く、構想策定の途中で別の病院が新中学校の隣に移転する計画も持ち上がった。新中学校を核として、こども園、病院、公園を一体開発する「文教ガーデンシティ」事業が固まり、地方行政で最大の難関である農地転用もクリアした。事業費100億円だが、合併特例の国の補助事業で財源は確保できる。この構想を選挙公約に掲げた3期目の選挙は何とか1万票を確保し、1万:3千で当選した。これで環境は整った・・・はずであった。
3期目就任半年後の市議会議員選挙で、16議員のうち7議員が新人となり、状況が一変した。その後の議会で重要案件が通らない。急遽、タウンミーティングを追加実施し、文教ガーデンシティ事業がいかに子育て世代にとって重要か、市民に直接訴えた。新中学校の危機に焦った中学校・小学校のPTA有志が推進を求めてデモ行進も行った。平成29年3月の新年度予算は否決。PTAは新中学校推進を求める400名の請願を議会に提出し、反対派は現中学校維持を求める老人会150人の請願を提出した。議会の採決は、400人のPTAを却下、150人の老人会を採択した。そして、5月16日、最後のチャンスであった臨時議会で最終的に否決された。特養で療養中の母が亡くなる3日前であった。
このとき、私は決定的な情報分析を誤った。否決すれば、合併特例債という財源を失い、農地転用は二度と協議できなくなり、病院は市外に流出する。「議会は否決できない」と考えた。彼らは否決するために議員になった、という事実を直視していなかったのだ。次の判断ミスは「議決の責任を取ることは想定していない」という議会の特性を理解していなかったことだ。最大の反省は、自分だけが10年同じ職にいることの影響を軽視したことだ。私が市長に就任してしばらくは、先輩市議達から助けられて議案を成立させた。議案提出前日に取り下げたこともある。「次の定例議会で通すから、今回は下げてくれ」に従い、その通りになった。平成29年は、自分が10年在職し、多くの議員が新人であることに思いが至らなかった。
これについては市役所内でも同じ課題が浮き上がる。部課長は2~3年で異動し、部長は交替するときには退職である。部隊において地元の隊員がいちばん長く、指揮官は2年程度で交替する事象と真逆なのである。市長は2~3期目くらいで全国市長会の役員になる。年に4回の役員会があり、各省の幹部が最新情勢を説明する。市長は視察出張も多いが、職員は人事異動後の研修出張くらいである。情報は市長にのみ蓄積される。私が議会に、「中学校の統合については、私が市長になった平成20年の教育振興協議会からずっと議論してますよね?」と言ったところで、そのときの議員は3人しかいないのだ。
61歳になった今、働き盛りであることは間違いない。日々、勉強であり、鍛錬であり、戦いである。自衛隊での勤務は大いに役立っている。「嫌なことからやる」、「反対が49%でも賛成が51%あれば実行する」、「責任感こそが最重要資質である」等々。国を守ることも、地方を守ることも、一市民を守ることも、いずれも難しく、ゴールが見えない。今、防大の哲学の授業を思い出している。
「鏡にしようと瓦を磨いている。その姿こそが仏なのだ。」
(2019.10.31)