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お知らせ

「同期生紹介」(15)(海)小川武志君~「謡曲と五十余年」~

2025.02.16

(海)小川武志君(海上4班、電気工学、第4大隊、剣道部)は護衛艦艦長等の要職を歴任後、江田島の第1術科学校の教官となり熱心な観世流の謡曲の先生のもとでさらに研鑽を積み、この先生の没後平成24年から江田島町(現在は江田島市)の謡曲同好会「濤声会」及び幹部候補生学校、第1術科学校等の謡曲同好会の先生として謡曲の指導に当たってこられ、町民や教官、学生への謡曲の普及に多大な貢献をされました。コロナ禍のため現在はこの活動は中止されているようです。いずれ再開されることでしょうが、地元でこのような活動をされている小川君に今回登場して貰いました。紹介記事は(海)後藤淳一郎君にお願いしました。

小川武志君のこと     (陸) 後藤 淳一郎

小川君の「謡曲と五十余年」と言う投稿が防大同窓会のHPに紹介されるのに際し、小川君の紹介文を書いてくれとの依頼があったので、記します。後藤君.jpg

とは言っても、小生と小川君は、防大の教務班も違うし、職域も艦艇と航空、少なくとも3佐になる位までは殆ど親しい交友は無かったように感じます。3佐の頃、お互いが海幕勤務となり、友達付き合いと、彼が将棋を指すことを知り、昼休みなど良く指したものでした。お互いに、相手を「へぼ」「へぼ」と言いながら勝ったり負けたり。更に、官舎が市川で同じだったせいもあり、お互いの官舎を行き来しながら深夜まで対局、これを見ていた、小川君の娘さんは、星取表まで作ってお付き合いをしてくれました。

年を経て、私が人事課勤務の時、丁度艦艇勤務の同期は、艦長職等の要職に就くものが多く、そこで事件発生、水上艦の艦長が航行中、急性胃炎で即日交代、潜水艦の艦長をしていた同期が、剣道でアキレス腱断絶、即日交代、そこへ、小川君、剣道でアキレス腱断絶の報が入り、さあどうするか? 幸い、彼が艦長をしていた護衛艦は修理を終えての作戦任務中でなく、公試中だった故、運航するときだけ、艦橋に担ぎ上げ、指揮をさせればと冗談混じりに言ったのが採用され、彼は、艦長職を全うした記憶を思い出しました。

その後、勤務の違いから付き合いが遠のくことが多かったですが、私が海幕で厚生課長の職を拝命していた頃、年2回江田島で学んでいる中級課程の学生に厚生業務の教務をしに行った際など、彼が自宅通勤の勤務地だった故、宿兼対局場として、奥様に随分お世話になりました。ある時など12時頃には奥様がお休みなさいと先に休まれ、朝、起きてきたらまだ二人は対局中、奥様にあきれられたものです。この後、私は江田島に渡り、3時間の講義を終え無事帰京したものです。

彼が謡曲をしていることは、随分前から耳にしていましたが、あそこまで造詣が深かったとは知らず、一度も聞いたこともないので、批評など全くできませんが、相当な実力があり研究を重ねていることが、にじみ出ている文章は、しっかり、拝読させていただきました。

次に会った折には、是非、彼の謡曲を聞きたい思いです。

彼の文には、謡曲の歴史やそれに纏わる昔の我が国伝来の芸術等、幅広く記されており、非常に感服させられたことを申し添えます。


                           

      「 謡曲と五十余年」       (海) 小川 武志

はじめに

謡曲を習い始めたのが昭和45年29歳の時、以後、東京、江田島、呉、佐世保の勤務地で先生や同好の士に恵まれ半世紀以上付き合ったことになります。謡曲を通じて貴重な経験をし、又多くのことを学ばせてもらいました。昔のことも振り返りながらそれらを紹介することを主眼に思いつくままを順不同に述べることといたします。

道成寺を謡う小川君.jpg      小川君と美津子夫人.jpg

1 謡曲を始めたきっかけ

 江田島は海軍の頃から謡曲が盛んで、昭和40年代の初めでも自衛官や町の人たちが沢山楽しんでいました。昭和45年少年術科学校に勤務していた頃、誰に言われたか忘れましたが「謡曲はオンチでも出来るぞ」「他の芸能は初めと終わりに必ずお客様に礼をするが、能(謡曲)はしない、礼なしで開始、終われば礼をせずに堂々と退場する、殿様の芸だ」「謡曲は武士の必須教養」と聞いたのを印象深く覚えています。多分それが謡曲を始めるきっかけだったように思います。

2 謡曲とはどんなものか

 一口に言うと能楽の歌謡です。能楽は(単に「能」とも言う)我が国の三大演劇(能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃)の一つで室町時代初期に観阿弥、世阿弥により大成されたものです。日本の重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産でもあり、世界に誇るべき大芸術と言えるものです。参考までに歌舞伎は当初河原乞食と言われていた遊芸者が能を真似て演じたのが始まりだそうです。皆様「能」を御存知と思いますが、それから「舞」「楽器演奏―太鼓、鼓、笛」「狂言」を除いたものと考えればわかりやすいと思います。つまりセリフや歌の部分が、謡曲なので「舞」「楽器」「狂言」がなくても物語はすべて理解できます。

「能」の淵源は天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時アメノコヤネの命が歌い、アメノウズメの命が舞ってアマテラス大御神が「何事?」と岩戸を一寸開けたところを大力のタチカロウの命が岩戸を開けたと言う神話が有りますが、その日本人の歌と舞と中国からの散楽が融合して猿楽として発展、真面目な面が能楽、滑稽な面が狂言になったと言うのが定説です。

3 どのように稽古するか

(1) まず師匠の真似

始めた頃は先生の謡うとおりに真似て謡うことでした。当時は録音することも許されず、ただ耳で覚えて謡うだけでした。室町初期の作品が口伝で600年以上も続いているのは驚きです。現在は録音が出来ますし、家元等のテープも売られていますので

大分稽古はやり易くなっているように思われます。しかし、真剣味が不足している感じがします。とにかく「先生の謡うとおりに謡う」ことです。「学び」は「真似び」、難しいことですが稽古の基本です。

(2) 気合いを入れる

謡いは「意気込み」が大切です。姿勢を正しくし、気を張り、声を張り、胎を張って(下腹に力を入れて)、弛むことなく強い弓を引き絞った時の気持ちで稽古するのです。 この気持が無ければ鼻歌になってしまいます。ここらが「謡曲は男性的」と言われる所以でしょう。ただし、現在は女性の同好者も沢山います。

(3) 続ける

稽古はどんな芸にも言えると思いますが、少しずつで良いから休むことなく続けるのが上達の秘訣です。一に稽古、二に稽古、三・四が無くて五に稽古、と言われていました。プロともなれば眼鏡をかけている人はいません。何故なら数ある長い歌詞を全て覚えているからです。私の仲間でも目が良く見えないのに発表会に出る人がいますが「百回稽古すると曲の意味もわかり、歌詞も覚える」と言っていました。

稽古していると必ず嫌になる時があります。どうしても上手く謡えない、全然進歩しない、私には才能がない、もう限界だ、と思うのです。そんな時先生から言われたことは、そう思った時は「上達している証左なのだ」「それを越えれば又上の段階に進める」と。

4 謡曲を学んで良かったと思うこと

古来「謡曲十徳」と言うのがあります、漢詩で書かれていますが意訳すれば次の通りです。

「行かないで名所を知る」

「薬無くして鬱気を散ずる」

「旅の時には心の通う友人を得る」

「勉強しなくても歌道を理解出来る」

「望まなくても高位の人と交わる」

「歌に詠まなくても花や月を望むことが出来る」

「老いずに故事を知る」

「自然に仏道を知る」

「友が無くても閑居を慰めてくれる」

「恋しなくても美人に親しむ事が出来る」

「十徳」でほとんど網羅されているかもしれませんが、自分が体験して良かったと思うことのいくつかを列挙してみます。

(1) 冠婚葬祭の時等に挨拶の代りになる。(人前で話すことが苦手な人には最適です。)

謡曲は200以上の曲目があり、江戸幕府の式楽ともされていたように諸行事を飾るに相応しいものも多くあります。曲目と歌詞の一部を次に示します。

「結婚式」

   (鶴亀)亀は万年の齢を経 鶴も千代をや重ぬらん

   (皇帝)寿なれやこの契り 天永く地久しくて 尽くる時はあるまじ

   (高砂)四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ御代なれや あいに相生の松こそめでたかりけれ げにや仰ぎても事も疎かやかかる世に 住める民とて豊かなる 君の恵みぞありがたき 君の恵みぞありがたき

「宴会」

   (猩々)老いせぬや 老いせぬや 薬の名をも菊の水 盃を浮かみ出でて 友に逢うぞ嬉しき この友に逢うぞ嬉しき よも尽きじ 万代までの竹の葉の酒  汲めども尽きず飲めどもかわらぬ 秋の夜の盃 影も傾く入江に枯れ立つ 足もとはよろよろ 酔に臥したるるる枕の夢の 覚むると思えば泉はそのまま 尽きせぬ宿こそめでたけれ

  「正月の祝い」

   (老松)齢を授くるこの君の 行く末守れと我が神託の告げを知らせる松風も梅も久しき春こそめでたけれ

  「元服の祝い・成功した人の祝い」

   (烏帽子折)かように祝いつつ 程なく烏帽子折りたてて 花やかに三色組の 烏帽子懸緒取り出し 気高く結いすまし 召されて御覧候へとて お髪の上にうち置き  立ち退きて見れば あっぱれ御器量や これぞ弓矢の大将と 申すとも不足よもあらじ

  「追悼」

   (融)この光陰に誘われて月の都に入り給ふ よそおい あら名残惜しの 面影や 名残惜しの面影

  「葬儀」

    (隅田川)残りても かいあるべきは空しくて かいあるべきは空しくて あるはかいなき箒木の 見えつ隠れつ面影の 定めなき世の習い 人間愁いの花盛り 無常の嵐  音添い 生死長夜の月の影不定の雲覆へり  げに目の前の浮世かな げに目の前の浮世かな

      追:お経では泣かないが、この謡いでは泣く人が多いと言います

   「諸行事の終わりに」

    (高砂)千秋楽は 民を撫で 万歳楽には 命を延ぶ 相生の松風颯々の声ぞ楽しむ 颯々の声ぞ楽しむ 

(2) 史実や伝承を知ることが出来る

  「勧進帳」

   (安宅)もとより勧進帳はあらばこそ 笈の中より往来の巻物一巻取り出し 勧進帳と名付けつつ高らかにこそ読み上げけれ それ つらつら 惟んみれば大恩教主の秋の月は 涅槃の雲に隠れ 生死長夜の長き夢 驚かす人もなし ここに中頃 帝おわします 御名をば聖武皇帝と名付け奉り 最愛の夫人に別れ 恋慕やみがたく 悌泣眼にあらく 涙球を貫く 思いを善途に翻して蘆遮那仏を建立す かほどの霊場の 絶えなんことを悲しみて 俊乗坊重源諸国を勧進す 一紙半銭の奉財の輩は この世にては無比の楽に誇り 当来にては数千蓮華の上に座せん 帰命稽首 敬って申すと 天もひびけと読み上げたり

  「安珍・清姫」

    (道成寺) 昔 この所に真砂の荘司と云う者あり かの者一人の息女を持つ 又 その頃奥より 熊野へ年詣でする山伏のありしが荘司が許を 宿坊と定め いつも かの所に来たりぬ 荘司娘を寵愛の余りに あの客僧こそ汝がつまよ夫よなんどと戯れしを 幼心に真と思い年月を送る またある時かの客僧 荘司が許に来たりしに かの女夜更け 人静まって後 客僧の閨に行き 何時までわらわをばかくて置き給うぞ 急ぎ迎え給えと申ししかば 客僧大きに騒ぎ さあらぬ由にもてなし 夜にまぎれ忍び出でこの寺に来たり ひらに頼む由申ししかば 隠すべき所なければ撞鐘を下しその内にこの客僧を隠し置く さてかの女は山伏を逃すまじとて追かける 折節日高川の水 以っての外に増さりしかば 川の上下を彼方此方へ走り廻りしが 一念の毒蛇となって川を易々と泳ぎ越しこの寺に来り 此処彼処を尋ねしが 鐘の下りたるを怪しめ 龍頭を銜え七まとい纏い 焔を出し尾を以って叩けば 鐘は即ち湯となって 終に山伏を取り畢んぬ なんぼう恐ろしき物語にて候うぞ

(3) 日本の美しい言葉に触れる事が出来る

徐々に失われてゆく感じの日本の言葉が謡曲の中に数多くちりばめられています。「松風」という曲は日本で一番美しい言葉があると言われていますので、機会があれば味わって頂きたいものです。又日本人の血肉になっている仏教用語も沢山あり、仏教を身近に感じることが出来ます。言葉は文化ですから謡曲を学ぶことは即ち日本文化継承に通じているのかもしれません。

(4) 健康に良い

謡曲の発声は腹の底から出しますので自然と腹式呼吸になります。又大きな声を出すのでフラストレーション解消になること、更に歌う時は良い姿勢が必要ですから健康に役立つようです。一般的に謡曲をやる人は長寿です(自分は該当しないと思っていますが)。

5 忘れられない戦没者追悼謡曲会

江田島では、昭和29年から謡曲クラブによる戦没者追悼謡曲会が毎年8月に行われており、昭和41年4月10日参考館特攻隊記念碑完成(除幕式には高松宮様、同妃殿下参列)以後は碑の前で追悼式、続いて英霊を慰める謡曲会が常となりました。

 平成27年戦没者追悼式.jpg 画像6.jpg

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可能な限り(退官後は毎年)参加しましたが、少しは英霊の慰みになったのではないかと考えています。

参考までに、令和元年は第66回目でその時の追悼の辞を次に示します。(行事の進行概要がわかると思います)

 「謹んで英霊の御前に申し上げます。戦い終わって既に74年になります。戦争を経験した人は殆どいなくなり、戦争があったことさえ忘れられようとしております。あの時皆様が「戦うも亡国、戦わざるも亡国という厳しい情勢下、戦わなければ永遠の亡国となる」と、決断した戦争において、"愛する妻子、両親、祖国を守るため日本の将兵は、いざと言う時には最後の一兵まで命を投げ出して戦う"ことを米軍に骨の髄まで知らしめました。子供二人を残して突っ込んだ特攻隊員の遺書に「二人仲良くしなさいよ、お父さんは大きな重爆に乗って敵をやっつけた元気な人です、お父さんに負けない人になって仇を取って下さい」と、あります。あなた方の決死の覚悟と戦いぶりが日本人の心の支えとなったことはもちろん、世界の崇敬の的となり戦後の日本の目を見張る復興に寄与しました。更に忘れてならないのは戦後の日本の安全が保たれたのは米国の力によりますが、それに勝るとも劣らない、皆様の身を挺した「日本恐るべし」という戦いぶりがあったということです。

しかしながら現在の日本はあなた方が護ろうとした日本になっているでしょうか?確かに物は豊かになりましたが、あらゆるところでモラルが低下し一番大事な「平和」が、戦争・基地反対と叫び、憲法で戦争を放棄し、祈ったり、願ったり、話し合いをすれば実現する、と言う甘い考えが染み渡っています。「あの時何故戦わなければならなかったのか、何故特攻をせざるを得なかったのか」「戦争をしないためには何をしなければならないか」等が深刻に反省されないままに、防衛や安全保障は他国の信義や米国任せとなり、国際法無視や国連決議に違反し核・ミサイルを発射実験する諸国に囲まれ、島は占領・侵害され、国民は拉致され、自国船が攻撃されてもしかるべき対応もせず、更にはアメリカファーストが実行されているにもかかわらず旧態依然です。近隣諸国からは「日本は甘い国で簡単に操作出来る」「日本は何をやっても大丈夫」と侮られ、国内では「日本は中国の属国になった方がいい」「人殺しよりは殺された方がいい」等、理解できないような政治家、学者等がいます。又それに同調したり「自衛隊は良いが自分の子供は自衛官にはしたくない」「基地は自分の近くは嫌」と言う多くの国民がいるのです。ある戦争未亡人が「こんな醜い世になって貴方の死は無駄だったのでは...」と言われたと聞いたことがあります。「あなた方が何を考え、いかに戦ったか」「あなた方の尊い犠牲の上に今がある」「私達は今何をなすべきか」を真剣に考えなければ又同じような悲惨な経験をすることになり、更には真の亡国を招く恐れもあるように思われるのです。私達はこのような思いを込め、この参考館の碑の前で66回目の戦没者追悼式を行っています。只今碑の前において、幹部候補生学校の謡曲部員、第一術科学校OBの方々、江田島・呉在住の謡曲を嗜む人たちで、南幹部候補生学校長の献花に併せて合わせてささやかながら「融」"トオル"の一節を献詠し、皆様のこと忘れません、心安かれ、私どもを御守り下さい、とお祈り致しました。

私達はこれよりレクリエーションセンターにて謡曲会を催します。拙い謡曲でございますが、皆様のお心を少しでもお慰め出来ればと心を込めて謡います。

どうかお耳をお傾け下さい。

            令和元年 九月七日   涛声会講師 小川武志」 

6謡曲雑感

(1)初心忘るべからず

  若い頃からいろいろな場所で謡いましたが、今、その時のことを思うと恥ずかしい限りです。顔から火が出るといった感じです。(その時はまあまあと思っていたのですからお笑いです)発表会が時々ありますが、その時は平素の稽古状況が如実に表れます。稽古不足は自分自身ももちろんですが、見る人が見ればすぐに分かります。謡曲では役・人物になり切って謡うのですが、なり切るのも謡う人の「生きざま」が現れるように思います。「初心忘るべからず」は世阿弥の言ですが、現在は「最初の新鮮な気持ちを忘れないように」と使われています。しかし本来の意味は大分違い、大分上手になって周囲の人も褒め自分でもその気になっている若盛りのことを「初心」と言っているようです。一時のかりそめの花を本当の花と思い込み、これが実は真実の花に遠ざかる心と言うのです。つまり、今の自分に満足したらいけない、常に自分の未熟さに想いを致し、当初の未熟さを忘れたら芸は停滞し後戻りすると言うのです。又世阿弥は「時々の初心忘るべからず、老後の初心忘るべからず」とも言っています。芸というものはあるところまで達するとそれからの時々、一刻一刻がいわば真剣勝負であると自分としては受けとめています。つまり毎日が最初で最後ということです。芸のところを我が人生と置き換えるとそっくり通じるように思うのです。謡曲を始めて50年以上ですが、自分は本当に未熟そのままだと実感しています。

(2)世の縮図

  謡いではいろいろな役があります。主役、脇役、そのツレ、地、又、人物にも皇帝、公家、武将、歌人、法師、幽霊、鬼、爺、婆、子供、女、等すべての人がその役になり切って謡わないとバラバラになるのです。主人は主人の仕事、脇役は脇役の仕事をしないと相互に相手を損なってしまいます。コーラス部分については、その中心になる人(地頭と言います)に合わせず各自が個性豊かに謡うと無茶苦茶になるのです。地頭に合わせる、地頭より先に謡わない、地頭が終わってからも謡いつづけない、と言ったエチケットも勉強になります。本当に世の中そっくりです。

(3)奥が深い

  歌詞、言葉があって「こう謡う」と言う節があり、これは稽古すればかなりのレベルに達すると思います。しかし、登場人物が何を言っているのか、そのこころを自分が持っていないと表現は出来ません。自分のなかに持っていて出ないのは技量不足で仕方ありませんが、持っていないものは出しようがないのです。「情」の表現は教えてもらうことが出来ません。例えば「子供を亡くして悲しい」と言うことを口で述べることが出来ますが、自分にその体験がないと真の表現は出来ないのです。つまり、本当に表現出来るものは自分が持っているもの、自分の全人格だけです。自分が未熟であれば聞いている人に感動は与えられないと考えています。

(4)教えることは自分も勉強すること

  平成24年に先生が亡くなり、後を継いで地域の人や海上自衛隊の幹部候補生有志に謡曲を教えることになりました。新型コロナウイルス感染症が始まって稽古出来なくなるまで7年間続けましたが、教えることは本当に難しいものです。噓は教えられないので自分が勉強稽古して十分な技量を保持しなければなりません。そして、習う人がやる気を起こす事が大事です。教えることは「教えてやる」ではなく、「一緒に勉強する」ということなのだと思い知らされました。技量面はもちろんですが、心の面でも良い師匠ではなかったと反省しているところです。

おわりに

 謡曲をやる若い人が段々少なくなり、「この素晴らしい日本文化を失くしてはならない」「多くの人が少しでも謡曲に興味を持ってもらいたい」という気持ちを常々抱いていましたが、この度我が同窓会から謡曲をやっている人を紹介したいという話もありましたので(他にも適任者はいると思いますが)私の経験した謡曲についていろいろと述べてみました。少しでも謡曲の普及・継承に役立てば幸甚です。締め括りに中川三郎氏編集の「謡曲百首」より次の歌を紹介したいと思います。

「観世より 謡い継がれて 我らまで

             千代もとまもる 花のいのちを」

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