「同期生紹介」(10) (海)尾辻 秀久君~「第33代参議院議長就任」~
2023.06.25
(海)尾辻秀久君(機械9班、3大隊、陸上競技部)は皆さんご存知の通り、昨年8月に第33代の参議院議長に選出され間もなく1年を迎えることになります。「同期生紹介」でぜひ取り上げてほしいという会員の要望があり、今回実現することとなりました。 詳細な尾辻君の紹介は後藤君の紹介記事に譲るとして、尾辻君は3年生の8月に母親の急逝に伴い防大を中退、故郷の鹿児島で家計を助けるため、家庭教師や学習塾を経営。4年後23歳で東大に合格。当時学園紛争中のため大学の授業が中断しており、海外放浪の旅に。そして東大を中退。 その後鹿児島県議を経て国会議員(6期目)となり現在に至る。異色の政治家である。
「尾辻君のこと」 (海)後藤 淳一郎
家庭の事情から途中で防大を去られたとはいえ、2年半に亘り同じ釜の飯を食べ、机を並べた者として、彼が、三権の長に上り詰めたことを喜ばずには居られません。彼が2歳余の時、駆逐艦の艦長であられた父上が戦死され、更に、防大3年の時に母上が41歳の若さで急逝され、当時、高校生だった妹の面倒を見るために防大を去らざるを得なかったことは、断腸の思いであっただろうと推察します。学生時代、機械工学を専攻していた我が9班は、どちらかと言えば、悪ガキの集まりで、尾辻君も高校時代から培われた悪ガキの一員だった気がします。でも、陸上部員として、毎日、放課後は校内のみでは飽き足らず、校外を走り続けていた記憶があります。今の防大卒業生に聞いても殆どの者が、防大が2度も箱根駅伝に出場している事実など知りませんが、昭和36年と38年に2回出場しており、まだ、在学中であった尾辻君も36年の大会で1区21.4kmを走って居る訳ですから、そのど根性ぶりが思いだされます。 故郷に帰り、生活のための苦労を重ねつつ、塾の生徒を見返すためか?東大を受験、合格。しかし、当時の学生紛争は通学を許さず、世界漫遊の旅に出て70か国をも回り、そこで培われた経験は、彼の著書「ボッケモン世界を行く」(三笠書房 昭和46年発行)、「旅また人生」(博報社 昭和57年発行)にも書かれていましたが、その後の人生にも多大の影響を与えておる事と思います。 以後、県議を経て、父上のご加護を受け、参議院議員として6期を務め、主として厚生労働業務等を通じ、諸改革を手掛けられているのは、ご承知の通りです。 私も偶然、尾辻君のインタビュー記事を見る機会があり、是非多くの方々にこの記事を読んで彼の生き様を見て頂きたいと思います。この記事とは「小原台クラブ」(注)の会報第33号(2009年12月号)の中の尾辻君のインタビュー記事のことですが、幸いこの記事の概ね全文が掲載されているWEBサイトがありましたので、そちらをご覧になって頂きたいと思います。今回尾辻君を紹介できることは同期生として望外の喜びでもあります。
(注)「小原台クラブ」:防衛大学校同窓会の支部。防大在籍経験者で現役自衛官以外の各種分野で活動する会員で構成された支部。
「尾辻君からのメッセージ」
北斗会の皆さん、こんにちは。
北斗会HPの監修をしておられます龍岡くんが 「まさか、あの尾辻くんが参議院議長になるとは!!」と、 私のことをHPで取り上げてくださるということでしたので、 一言、挨拶も載せてもらうことをお願いしました。
思い返しますに、昭和63年の8月でした。
当時、「ジェネラル」の愛称で、我々の敬愛する田村秀昭先生(注1)が
自衛隊の代表として自民党比例から出馬しておられました。
それにも関わらず、同期、そして陸上部の有志が、私の選挙を支えてくれました。
友情に胸が熱くなった日は、昔のことではありません。
陸上部50年誌に寄せて、私のことを
「秀才との呼び声はなかったが、不思議な魅力はあった」と
評してくださった冨澤暉先輩(注2)も、そのお一人でした。
成績は優秀とは言い難いが人間的魅力に溢れていたために、キャリアのどこかで地連部長を経験することの多い機械9班の中でもヤンチャ代表の私が、今日まで来れましたのは、夜、イカを食うだけが楽しみの洋上訓練やふんどし一丁での遠泳訓練などを、皆で歯を食いしばって、鍛えてもらった精神と肉体、そして、あの選挙で支えてくれた皆んなに恥じないようにの一心それだけでした。
改めて、この場を借りて、厚くお礼を言いたいと思います。
参議院議長
尾辻 秀久
(注1)空1期生 (注2)陸4期生