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お知らせ

「同期生紹介」(3)~(海)打矢磐男君の定年後の活躍について(アメリカ手話通訳者として)~

2022.08.01

 打矢磐男君(応用物理13班、1大隊)は定年退官後、アメリカ手話通訳を志しアメリカ、カリフォルニア州リバーサイド市にある州立リバーサイド・コミュニティー・カレッジ(現リバーサイド・シティー・カレッジ)のASL通訳者課程に留学し、以後アメリカ手話通訳として国内で開催される各種イベントにおいて手話通訳のボランティアとして参加するなどの活動を続けておられます。加藤君から同君の定年退官後の活躍について投稿がありましたので紹介します。


          ~ 打矢磐男君のこと ~     (東部支部海部会員 加藤寛二) 


 打矢磐男君の「海上自衛隊退職後の活躍」を紹介する前に、小原台を離れてから、海上自衛隊を退職するまでのトピックを2件ご紹介したいと思います。
なお、彼の出身地は「東京都」、「石神井高校卒」、「仏語、英語専攻」、「合気道部」、「教務班は応用物理13班」、「訓練班は海上14班」でした。

1 彼の人生最大の喜びは、「康子夫人との結婚」であった。
防大合気道部の陸自13師団(広島県安芸郡海田市)での合宿時、海上同期の井野和雄君の紹介で交際が始まり、婚約して5年後に結婚されました。婚約期間5年を加えると今年で結婚60年を超えることになります。
南極観測艦「ふじ」、護衛艦「くらま」等艦艇乗り組み・行動時を除いて、現役時代を通して単身赴任を経験しなかった彼は、康子夫人と共に、喜び・悲しみ・苦しみ等々を満喫できた幸せ者と言えるでしょう! 明るく、優しく文才にたけた打矢家の編集主幹でもある康子夫人は正に"一生もの"なのです。

2 彼の人生最大の痛恨は、「郷土訪問飛行の許可」であった。
1971年秋、教官操縦士であった同階級の機長が操縦するヘリを伴い、打矢君が編隊長となって、空自小松基地出発。舞鶴地方隊艦艇との共同訓練に参加。訓練が終了した翌日、松空(小松島航空隊)への帰投時、新聞・テレビを騒がせることになった、金沢市出身の2番機機長による自宅上空訪問飛行・所謂「郷土訪問飛行」がありました。
打矢君が、松空へ帰投するなり、速やかに徳島経由空自小松基地へ出向き、団司令への状況報告・お詫び言上、加えて同団司令の指示に従って、関係官庁へ説明に行くよう命じられ、一旦,官舎に戻り、康子夫人に有り金を出してもらい、「金沢で不都合があった様子なので、事情説明等をするため小松基地へ再度行く旨」を告げ、小松島警務分遣隊長が同行、へリ・S2Fを乗り継ぎ小松基地へ向かいました。小松基地で団司令への状況報告・お詫び言上後は、同団司令の指示に従い、金沢東警察署に前記警務分遣隊長同行のもと出頭、「航空法違反容疑での取り調べ」に応じる形で尋問を受け、取り調べ終了後には、マスコミ関係記者との会見までも待っていたのでした。松空帰着後には.事件が送致された徳島地方検察庁で、検事による取り調べを受け、加えて各上級指揮官、海幕防衛部長への報告等を行いましたので、搭乗配置を解かれ、この事件に専従させて貰えたとはいえ、約1か月半、後ろ向きの仕事をする羽目になりました。 懲戒処分の被申し渡し(編隊長:減給、2番機機長:停職)が早期に行われたことが幸いして、徳島地方検察庁は、事案を「不起訴」と決定してくれたのでした。
打矢君への、事件発生から不起訴決定までの間、〝退職して民間へ出ろ″と言う忠告を多数受けましたが、当時海幕防衛部長であった中村悌二海将から「叱咤激励」の書簡を戴き、それを読んだ当事者の二人は、気持ちを切り替え、定年まで職責を果たすことを誓い合い、約束通り勤め上げ、相前後して海上自衛隊を定年退職したということでした。そしてその後も、打矢君は、編隊長としての責任を痛感することはあっても、2番機機長を責めることはなく、そのご家族を含めいたわり続けていました。
以後の物語は、この紹介に引き続いて発表される「視覚言語への道」をご覧ください。(打矢君の手記を添付します。)

             「視覚言語への道」         (打矢磐男)

 何時、誰が書いた文章なのか、何故私の心を捉えたのか記憶にありませんが、今もノートに「人生というものは、偶然の出会いが何を生み出すか分らぬものなのだ」という一文が、書き留めた当時のまま残っています。
定年退職後、私をそれまでとは全く異なる「視覚言語の世界」へ導いたものは、紛れもなく、在職中に出会った聾者に関わる三回の偶然でした。この道に入って20有余年、私は収穫を得るまでには至っておりませんので、私が辿ってきた細いマイナーな道とは如何なるものであったのか、偶然の出会いから、退職後~米留準備、米留中のあれこれ、中途退学、その後までを見詰めなおしてみます。それが、今後もこの道で歩を進めるエネルギーになることを期待しながら。

  ジョージア民族衣装を着た筆者(愛知万博).jpg     留学先のリバーサイド・シティー・カレッジのロゴ.jpg

1. 偶然の出会い

(1)第19次南極地域観測支援業務('77.11~'78.4)で、砕氷艦「ふじ」に同期生;鶴園恭弘兄(航海長)と共に飛行士(ヘリ操縦士)として乗り組み、西オーストラリア経由、暴風圏を越え、南極大陸に沿って沖合に張り出した厚い定着氷縁に着いた直後、細かく砕けたシャーベット状の蜜群氷に囲まれ、推進力を失い、艦体を定着氷に押し付けられ、艦尾方向への流れに翻弄されながら、氷の圧力で艦体を持ち上げられ、重量が氷の圧力に勝ると右絃又は左絃側に傾いた状態で、艦体重量と圧力が釣り合うところまでいっきに落とされるという状況が一昼夜半続きました。そして、艦体が流されながら大きな氷山に押し付けられた時には、飛行甲板後部に設置されたアンテナの一部、飛行甲板に設置の安全ネット展張用鉄製パイプ支柱を破損しました。幾度も南極を経験している観測隊員でも、傾斜した甲板上を氷が流れるという状況さえも経験した人は皆無でした。 このような状況下で目にした本が、ヘレンケラー女史の自叙伝だったのです。人間社会に、これまで自分が育ってきた世界と全く異次元の世界が存在することを、衝撃的に認識したのでした。「神様が、私に一つ望みを叶えて下さると言われたならば、迷わずに、音を頂きたい、とお願いします」という記述があったことを、鮮明に記憶しています。

(2)幹部学校主任研究開発官勤務時('90.7~'92.7)、立川宿舎に住まいました。同宿舎は、都立立川聾学校に隣接しており、発語・口話訓練を受ける学生の声(当初は、奇声としか認識出来ませんでした)が聞こえる距離にありました。南極行動時に認識した異次元社会の存在、たまたま機会を得た同校訪問時、校長・教員との懇談の中で、手話を学ぶことも模索していることを話すと、手話を学ぶのであれば、米国手話を是非とも学んで欲しいと言うのでした。
この時初めて、聾者のための世界で唯一の総合大学(私立)がワシントンDCに存在し、世界中から集まった聾学生が卒業後帰国して、米国手話で聾教育を図り、周辺諸国にも米国手話が普及しつつあること、又、米国手話が、聾者の世界的な会議等における公用語の一つになっていることを知りました。加えて、当時日本国内には、米国手話通訳者は数名しか存在していない、というのでした。
なお、同校では手話に寄る学生教育は行っておりませんでした。

(3)八戸航空基地隊司令勤務時('92.7~'93.7)、米海軍三沢基地に勤務する日本人から、先任下士官夫人が聾者であること、同基地内夫人の会で活動しているほか、時折、基地周辺の日本人聾者グループとも交流がある、という話がもたらされたのです。同人を通じて、私は、日本の聾者・聾文化についても無知な状態にあるけれども、退職後、米国手話を学ぶという選択肢を持っていることを伝えたところ、三沢基地内の宿舎で会いましょうという誘いを受けたのです。
勿論、その誘いを有難く受けさせて頂き、妻を伴い三沢基地正門で待ち合わせ、先任下士官宿舎を訪問しました。家族は4人、聾者は夫人だけで子供2人も聴者でした。家庭内のコミュニケーション方法は色々あり、主要なものは、家庭内だけで通じるコード化されたホームサインに加え、話し言葉の英語をそのまま手話で表現する方法でした(ご夫妻の意思疎通手段もこれでした)。只、父子だけの場合は話し言葉の英語で、母子だけの場合はASL(聾者として生まれた人が主用する米国手話)を用いている様子でした。この時初めて外国手話によるコミュニケーションを目の当たりにして、その豊かな表情・表現に驚きました。

2.退職後から米留準備まで
 トヨタ自動車株式会社('94.1~'98.12)で、単身赴任寮管理人として勤務しながら、日本ASL協会でASL基礎講座の受講を開始。ところが、教室内の意思疎通は、受講生・講師(米国の大学卒業生)の大半が聾者であったことから、手話が主体でした。そのため、聴者の受講生に通訳をお願いし、聾受講生とは日本語を紙面に書いて意思疎通を図りました。当然のことですが、日本の手話講座をも並行して受講することになり、だいぶ混乱しました。
同社退職後の1年は、TOEFL受験、受け入れ許可を得るための大学検索、エッセイ作成・送付に費やし、2000年2月留学先が決まり、在京米国大使館に赴いて学生ビザ発給申請手続きを進め、7月の出発に至ったのです。
留学先:カリフォルニア州リバーサイド市(ロスアンゼルス「LA」から内陸へ約120㎞;仙台市と姉妹都市)、州立リバーサイド・コミュニテイー・カレッジ【現リバーサイド・シテイー・カレッジ】,専攻(ASL通訳者課程)、学生ビザ有効期限4年でした。


3.米留中('00.7~'04.6)のあれこれ
(1)ブッシュ大統領(父)が1991年に定めた「障害を持つアメリカ人の行動に関する連邦法(ADA法)」  が、有効に機能していました。
例:聾観客の入場が予定されている舞台興業では、事前に通訳者と出演者の打ち合わせが行われ、舞台正面、最前列の席に座った聾者の前で、舞台を背にした通訳者が、館内の状況をも含めて、終演迄無料で通訳します(主催者に通訳者を準備する義務が課せられている)。
・障碍者が介助者を伴って行動する姿はほとんど目にすることはなく、障碍者が単独でバスを使い行動するか、或いは オンデマンドサービスを利用していました。障碍者自身(重複障害を含む)が車を運転する姿は、物珍しい光景ではありませんでした。

(2)学内の状況
  日本国内の大学の状況を十分に承知しておりませんが、コミュニテイー・カレッジは、学生本位に存在す  ると言えるでしょう(日本の短期大学・高等専門学校が、内容的に近い存在であろうと思います)。

  ASL通訳課程主任教授.jpg   リバーサイド・シティー・カレッジ校舎.jpg 

  講義は、早朝6時から夜10時まで行われており、設定されている時間割と科目を参照しながら、受講者自身が受講する当該学期スケジュールを作り、受講科目を登録する前に、カウンセラーと面談しなければなりません。米国市民権を持つ学生は受講科目1科目/1学期でも可(大半の学生は既に職を持っており、定期昇任・昇給制度がないため、昇給-昇任を図るため受講することが多いようでした)。留学生は6科目以上/1学期が義務(受講料:市民権保有者$10/1科目、留学生$110/1科目:1学期、当時の為替レート130円/$1)でした。なお、シニア市民の希望者は1科目/1学期無料受講出来る制度がありましたが、期末試験で落第点(70点未満)を取ると以後全て受講不可でしたし、一般受講生も、同じ科目は2回まで受講可能でしたが、3回目の受講は不能(転校しても)という厳しいものでした。他方、学内の検定試験に合格すれば、留学生を含め時給が支給されるチューター制度、売店・カフェテリアでの仕事、通訳業務、技術指導助手等の学内制度が整備されており、更に驚いたことは、受講講座の担当教授が、他の州立大学で同一講座を持っている場合、当該大学に在籍してなくても無料で受講が可能という制度がありました(制限の有無については確認しておりません)。

 ASLは、連邦法で大学教育の科目とされており、第二外国語として選択する学生が多く、州立大学の90%以上がASL講座だけでなく、手話通訳者養成講座を設けていて、日本のように自治体が実施する手話講座はありませんでした。
 なお、学内には、学内検定試験合格者を含め、30名以上の手話通訳者(通訳可能範囲限定)がおり、週間スケジュールを見て、聾学生自身が障害学生支援センターで手話通訳(90分以上の講座の場合は、通訳者2名とノートテイカー1名)の予約が出来ました(チューター制度を利用する場合も同様:通訳者の固有名詞を上げて調整していました)。ASL3以降のASL講座は、第二外国語として扱われないため、受講者が激減、通訳課程の諸講座も、定員に満たない学期には開講されないことがありました。通訳課程の必須講座には、聴覚、倫理、コミュニケーション、心理学、カウンセリング等、更に全単位取得後一年間のインターン義務が課せられていました。手話通訳資格試験(連邦・州は)は、その後受験することになります。ASL課程・通訳課程を通じて留学生は私一人、学友(10名程)は市民権を持つ10代後半から60代までの男女でした。
驚いた制度としては、各学期末に、受講生が講座担当教授の査定を行うこと(英語を母国語としない受講生が受講する英語講座に於いても同じ)でした。
 又、学内に限りませんが、各種通訳・要約筆記(手話・指点字・英語によるノート・テーキング等)支援を受けた後には、その結果を、受益者自身が、通訳者等派遣元に報告することが定められていることでした。その報告結果によって通訳者等のレベル、報酬が上下し、不適格者の淘汰に繋がっておりました。なお、手話通訳については、当時、通訳担当範囲が11の分野に分割されており、毎年、州立大学持ち回りで研修会が設けられ、諸基準等の見直し・標準化、専門部門の分科会等がおこなわれ、通訳者には出席が義務付けられている、と言われました。 余談ですが、聾受講生の学業成績、聾研究者の会議・研究会における評価は、通訳者の技量に左右されますから、専門分野では、非常に厳しいやり取り、信頼関係が求められると聞きました。
ASL課程では、手話(ASL)と英語へ慣熟することに勢力を注ぎましたが、負担が大きい作業としては、講義終了の都度、受講後の所見・次回講座までに解決を図る事項などを整理・記述して、ノートを担当教授に提出しなければならないことでした。
 この時期に、自宅の裏庭に小さな映画館を設け、聾友人と娘(自宅映画館内にて).jpg無声映画を定期的に上映する聾者夫婦と懇意になり、往路は自転車、アパートへの復路は御主人が運転するピックアップ・トラックで自転車も含めて送り届けてもらうという関係を築くことが出来、中退帰国時には、手持ちの家具等すべての処分を引き受けてくれましたし、大の男が、ハグしながら涙ボロボロという状態にまで親密になることが出来ました。現在も交流が続いています。
 通訳課程で中途退学するまでの間に於ける最も印象深かったものは、倫理の講座で、受講生を個人的な宗教・信条・意見には無関係で二分し、「安楽死について」、2カ月余りの準備期間を設けた後、「肯定」、「否定」の立場でデイベイトしたことでした。憲法、法律、判例、査読済みの論文(一部米国外を含め)等の資料収集、想定問答作りと、その受け答えで考えられる戦略・戦術、担当者割等、防大時代にも経験しなかった討議の経験は、得難いものでした(英語ではなく、ASLによる討議)。

(3)付言することを避けて通れない出来事に、同時多発テロ事件(2001.9.11)があります。
米国内TV各社と、LA経由放映された日本のTV報道の差が余りにもありすぎることに驚き、米国TV局の報道には流石だと感心し、目を見張るものがありました。テロ行為が発生したそれぞれの現場では、当然、混乱、錯誤等がおきているはずですが、TVスタジオで報道に従事しているキャスター、スタッフ、コメンテーターの姿・様子からは、緊急事態が起こって混乱している様子が全く伝わって来ないのです。全員が、感情を抑え、冷静な口調で、ライブ映像を解説しているのでした。然も、状況はそれぞれの責任者が、事実関係だけを、簡潔・明快に伝えており、常日頃の報道姿勢がよくわかりました。他方日本のTV放送は、国内事象ではないにもかかわらず、アナウンサーの声は上ずることもあり、コメンテーターも通常と変わらず専門家とは言い難い面々。これで、正しい状況が的確に視聴者へ伝わるの??・・・と言う思いを強く感じました(事象発生当初だけの所感です)。加えて驚いたことは、事態発生3時間後には、各現場からのライブ映像を映しながら、画面の下部には、各種ヴォランテイアについて、TV局がカバーする各地域内に於ける問い合わせ先・連絡先が、絶え間なく文字で流されていました(私は、献血に出向きました)。この状態は、各現場の状況が落ち着くまで継続放映されていましたし、中には、所要の人員、機〈器〉材、物資等の名称・数量も示してありました。
 ヴォランテイア活動で学んだことがあります。自転車通学で通る道沿いに建つお宅前を、午前の講座を受講する際に通ると、年輩の御婦人が杖を突きながら星条旗を携えて表庭に現れ、掲揚ポールのロープに旗を付け、国歌を口ずさみながら掲揚するという行為を、約1か月間続けられたのです。御夫人曰く、「同時多発テロ事件に関して、私に出来るヴォランテイア活動は、これと祈ることです」。ヴォランテイア活動の真の意味は此処にある、と理解しました。
 パールハーバー記念日に、60㌔程離れたチノ空港航空博物館が所有する、零式戦闘機、99式艦上攻撃機(何れも戦後持ち帰り同好者が募金を集め、ヴォランテイアで整備、飛行可能状態を維持)等、大戦時に活躍した航空機の飛行展示が行われるという情報を得て、一日を費やして自転車で往復しましたが、一般道路にもかかわらず、大型トラックを運転するドライバーから、「お前さんはクレイジーだ」と運転席から叫ばれ、声を掛けられる場面が、幾度もありました。


4.中途退学について
 関係講座が開講されなかった学期、一時帰国中に開講されてしまった講座等があり、当初予定していた科目・単位取得計画が遅れたため、留学生支援センター、ASL&通訳課程担当教授、カウンセラーと話し合いましたが、同時多発テロ事件以降、学生ビザを含め、ビザ発給が極めて厳しくなっており、同一理由による学生ビザ有効期間の延長、新たな学生ビザ発給はほぼ期待出来ない状態になっている(米国にとって大きなメリットが見込まれる場合を除き)ので、在日米国大使館で相談するよう促され、一時帰国時に在京米国大使館を訪れ、事情説明をしましたが、学生ビザ有効期間延長には繋がりませんでした。米国に戻り、教授・留学生支援センター、カウンセラー、学友、聾友人に、ASL手話通訳者への道を断念して、ヴォランテイアとして活動出来る道を日本国内で見出して行くことを報告し、伝え、学生ビザ有効期限まで勉強・研修を続ける意を話しました。
 帰国前には、主任教授宅に同級生が集まり送別会を開いてくれたほか、教授から友情の 印と共に学んだ印として、記念の盾を頂戴しました。

主任教授から贈られた記念の盾.jpg     手話交流(クロアチア国列車内).jpg

(1)日本と米国との間に於ける障碍者に関する考え方・接し方の相違
 日本では、障碍者は庇護の対象、自己よりも下のレベルの存在、年配者の間では近親者 に障碍者が存在する場合、その存在を可能な限り隠そうと画策したり、存在を否定する場面も最近までありましたし、障碍者の入学試験受験さえも認めない学校(小学校から大学まで)が、今なお存在する現状です。米国では、ADA法成立以前の第2次大戦中に、聾者が航空機製造会社で勤務していた記録がありますし、米留中には、政府行政機関の次官を務める聾者、自家用機を操縦するパイロットも存在して居りました。又、学内講堂で行われるオペラ等の公演には、入院患者さんなのか、施設入居者なのか確認しませんでしたが、ストレッチャー・タイプのベッドに横たわり酸素吸入装置を装着した人を、数人の介助者が付き添って、観賞する状況を複数回目にしましたし、講堂の設備そのものが、それ等を可能にするような構造・空間設計されていました。

(2)障碍者のリハビリ施設、職業訓練センターでは、スタッフ全員がほぼ障害者で、訓練に直接関わるスタッフは、訓練生と同じ障害を抱え克服した経験を持つ人が当たっておりました。障害を持たない人(日本では、健常者と呼称していますが)は、ヴォランテイアか、予算・寄付関係交渉、調整役の少数者で、所謂健常者が主要役員を務めている組織は、目にしませんでした。又、障碍者関係施設以外の組織に於いて、障害者の下で働く障害を持たない人(健常者)を多数見ました。

(3)笑い話を2件紹介します。
 1件目は、妻がリバーサイドを訪れた際、スーツケースを縛る帯に虹色の帯を使ってLA空港に降り立ち、迎に出た私が携行してLA中央駅まで地下鉄を利用している時のことでした。途中から乗車した数名の男性若者グループが、しきりに当方を見ていることに気が付きました。その内、二人が私の側へ来て、丁寧に挨拶した後、スーツケースの帯を指さしながら、我々も同じ仲間・同好者なので、メールアドレス、電話番号を教えてくれと言ったのです。虹色が、皆さんのシンボル・カラーであることを私は理解しているけれども、日本では未だ熟知されておらず、今回は、妻が、LA空港で自分の携行ケースを容易に識別するためにこの帯を使用しただけであることを説明すると、「良く分かった。滞米を楽しんで下さい」と言い、笑顔で仲間のところへ戻りました。
其処で、お互いにOKサイン!彼等が居住する建物、彼らを受け入れるレストラン等には、シンボルカラーの旗が、24時間翻っています。

 他の一件は、帰国後の2008年、夏の北京オリンピック開会式直後に、ロシアがジョージア国(旧グルジア国)に侵攻し、各所で攻撃に寄る被害が発生しました。私は、2005年愛知万博開催期間中、ASLを活用する機会があることを期待して応募、同国パビリオンで説明員として勤務したこともあって、その後同国聾唖連盟とお付き合いがあり、攻撃に寄る損壊・器物破壊を受けたとの報を受け見舞金を送付したところ、同連盟からお礼の言葉と共に、「聾者の美人コンテスト」開催費用の一部として使わせて貰った、と言ってきました。私の感覚とは違うわい、と思いましたが、ズレを感じるのは私だけなのか、それとも日本人とジョージア人との差なのでしょうか? 世界旅博(東京ビッグサイト)では、10年間ヴォランテイア説明員を務める機会を得ました。

旅博(東京ビッグサイト)ジョージアブース.jpg

 これまでに、国内でASLを使った事例としては、日本財団が奨学金を提供して聾者のための大学に在学する大学生・大院生3名(ケニア、ペルー、ジャマイカ)が、同財団へ報告に訪れた際帰国までのお付き合い、世界聾者卓球選手権大会程度でしょう。なお、家庭内の変化は、米留中、家事全部を自身でこなしましたので、家事の大変さが身をもって認識出来ましたので、帰国後は妻と家事を分担、継続していることですね。

ヒョットすると、これが米留によって挙げ得た最大の成果と言えるのかもしれません!!
 最近、手話言語条例を定める自治体が増加しつつあり、好ましい状況だとは思いますが、各国が当該国の手話を憲法・法律で公用語の一つと定めている方向・内容とは必ずしも一致していません。
我が国に於いては、日本語そのものを憲法・法律で公用語と定めていません。私の記憶では、最高裁の判例で「日本語」を「国語」として扱っているにすぎず、「日本語」を公用語の一つとして規定しているのは、世界で唯一「パラオ共和国のアンガウル州」だけであるという実態を考えると、我が国の有り様・姿勢に??  
今後もこの道でヴォランテイア活動を継続し、又新たな出合いに巡り逢うことを期待しています。
全く実のない内容でしたが、このような生き方を続ける変異種の同期生も居るという一例だと、ご理解下さい。        
                                       以 上
 
(参考)
アメリカ手話(ASL)とは:アメリカ合衆国やカナダの英語圏で使われている手話である。(American Sign Language の略)

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