陸上3期生会解散の辞
2024.11.30
陸上3期生会解散の辞
同期生会幹事を代表して 坂本 護
我々同期530名が建設途上の丘の上に集まって「はや70年が経過」しようとし、その多くは米寿になろうとしている。お互いを知らぬ中であった者が今では固い絆で結ばれている。尊敬してやまない槙智雄初代校長は、いくつかの条件のなかから首都近郊で「風光明媚なところ」を掲げられたと聴いている。その意を汲んでか、入試の和文英訳の中に「小原台は東京湾入り口にあって、標高85メートル、風光明媚で・・・」という一文があったのをかすかに覚えている。
防衛大学校第3期生会(陸)最終同期会出席者(34名)令和6年11月15日
保安隊・海上警備隊が陸・海・空の自衛隊に改変された直後でもあったが、スマートで格好のいい紺色の制服に誇りを持っていた。当時世情は旧軍隊に対する批判の声もありノーベル賞作家の大江健三郎氏は「防大生は現代の恥辱」と発言し、お茶ノ水女子大生は「防大生にはお嫁に行かない」と怪気炎を揚げるようなこともあったが、それらに同調する機運は生まれなかった。その一方で防大を訪れた有馬稲子氏は、われわれはいざ鎌倉というときには戦場に立つことを念頭にし「皆様お命を大切に」と多くの国民の声を代表して、静かな声援を贈ってくれたのをわすれることはできない。
建設途上の小原台は雨が降れば長靴を履いての作業があり、風が吹けば砂塵が舞って室内に入り込み「緑こそ我が安すらい」の言葉が誰となく口の端に乗るようになったものだ。
袖に桜の花を一つ咲かせたとき、陸・海・空の要員別に分かれるとともに、専攻も1・2期の機械・電気・土木・化学の4専攻に加へて応用物理・航空工学の6専攻となった。
教室での勉強で知を磨き、学生舎での生活で自衛官としての素養を高めるとともに、大隊対抗競技にも血を躍らせ、時間的な制約はあったものの他大学とスポーツ交流も計った。部活は心身の鍛錬とともに揺ぎ無い友情を育んだ。
かくするうちに4年の歳月は夢の間にすぎ、昭和34年3月20日晴れの卒業式を迎え、海・空の同期生とは別れて陸上は久留米へと向い、26期幹部候補生として本格的な訓練を受けることとなった。
そこでは職種別の選考があり悲喜こもごもの結果が待っていたが今となっては笑いぐさである。8か月の教育を受けて卒業し264名が陸自各実施学校へと散っていった。
各実施学校では約半年の教育を受けて部隊配置となったが各駐屯地・部隊には1人か2人しか配置されずいささか淋しい思いもしたが、隊務の繁忙さにまぎれて淋しい思いもいつの間にか消え去って行った。
部隊運用や装備品の適切な使用を図るため各種学校で教育を受けながら指揮官・幕僚としての研鑽を積み重ねて、自衛官としての誇りと自信をもって隊務を遂行するに至った。その間陸のみならず海空の同期生からも多くの支援を得たことは有難いことと思っている。
防大卒業時の小泉信三先生の祝辞の言葉を引用する。
「すべての根本に国の独立がある。しかしその日本の独立を誰が守るのか。天は自ら助くるものを助くという。日本人自ら護らぬ国の独立を護ってくれるというそんな奇特な物好きは20世紀の世界にはないのである」と。卒業生の任は重く道は遠い。しかし諸君は十分の用意をもっていられることを私は信ずる。心も体もつねにすこやかなれ。国と諸君の前途に幸多かれ」と。
1発の銃弾をも発することもなく任務を終えた我々の存在は、日本の安全に大きく貢献したと自負して差し支えないであろう。
制服を脱ぎ、自由の身になって第2の人生を踏みだした時、頼りになるのは同期生からの情報であった。同期生意識が高まって活動も活発になってきた。
歴代会長・事務局長のほか各支部長・分会長の努力もあって活動は活発にはなったが、近年は加齢に伴う心身の不調者が出ることは否定できず、同期の半数以上が幽明境を異にして会の運営にも支障をきたすようになった。したがってまだ余力のあるうちに同期生会としての組織的活動は中止し、各支部・分会の自主活動に任せることとした。
核保有のロシア・中国に加えて北朝鮮に取り囲まれた今、日本の安全保障環境は極めて厳しい制約下に置かれている。
われわれアナログ人間の能力外のAIを活用した部隊運用や、同盟国との共同訓練、編成・装備・運用も大きく変わった陸上自衛隊が輸送船舶をも運用する状況にまでなってきている。頑迷固陋な老人は応援団にもならないが、出来ることはただ一つ、影の応援団として有形無形の支援で現役を支えることだ。
槙校長は「持ち場を離れるな」と訓示されたのを記憶している。我々は現役時代には一人たりとも大事な時に持ち場を離れた者はいない。その誇りを胸に、同期生活動に静かに幕を下ろし、あの世とやらでまた逢う日までしばしの別れとしよう。
以上をもって陸上3期生会解散の辞とする。令和6年11月15日