防大逍遥歌の誕生と現状
2015.04.24
本論考は、防衛大学校の卒業生、在校生の多くから親しまれている逍遥歌の誕生秘話であり、歴史的な貴重な証言でもある。本論考の著者は偕行社編集委員の喜田邦彦氏(防大10期[陸])であり、喜田氏及び偕行社のご厚意により偕行記事27年4月号から転載するものである。
(防大同窓会広報部HP担当永岩記)
防大逍遥歌の誕生と現状
偕行社 編集委員
喜田 邦彦 陸自66
はじめに
今年の偕行社の賀詞交歓会もまた、最後は陸軍士官学校歌と防衛大学校逍遥歌で終わった。直後に防大1期生の大東信祐氏は、「俺たちの期は、在校間に逍遥歌を歌ったことがない」と述べられた。「エッ、なぜですか」との質問に、「あれは我々が卒業したあと、4期生が作詞・作曲した歌だよ・・・」
防大卒業生の宴会では、全員が立って肩を組み1番から4番まで合唱するのが定番になっている。筆者・10期生の防大時代は、ホッケー部活動に明け暮れ、「勝って祝宴、負けて反省会、締めは肩を組んでの逍遥歌」でしかなかった。漫然と、作詞者は不詳、作曲はプロと見なし、酒と共に心地よいメロディー、高邁な歌詞、理想の姿に酔いしれていた。
50年余にわたり、作詞・作曲された大先輩に失礼しっぱなしである。お詫びと敬意を込め、誕生のエピソード・秘話を書かせていただこうと考えた。ところが、ネットで「防衛大学校逍遥歌」を調べたが、結果に驚いた。
検索画面トップは、応援団の写真(通常は小原台の全景写真のはず)。続いて「前口上」。歌詞はその後。さらにその「前口上」に、「酒は飲むべし百薬の長 女買うべし これまた人生無上の快楽」等々、バンカラ・不快な言葉が連なっていた。
半世紀余にわたり歌い続けられた逍遥歌も、世相の変化、世代交代の波にもまれ、傷つけられ、変化している。我々世代の同窓生にとって逍遥歌は、熱き血潮の青春時代を振り返る、神聖な魂を呼び起こす歌だった。そこで、その誕生と後の変化を、追ってみることにした。それらを記録し、残すことも、『偕行』誌の役割であろう。
発端 校友会の動きかけ
昭和33年と言えば、保安大学校が防衛大学校と改称され、小原台に移転した2年後。世相は、60年安保闘争の始まる2年前で、自衛隊・防大に厳しい時代だった。
当時、4学年は3期生、3学年は4期生、2学年は5期生。逍遥歌の作成を目論んだのは、学生の自治活動をつかさどる校友会本部で、学校当局は関与してない。
校友会の中期学生委員長は、3期生の百瀬友宏氏。校友会本部の役員は5~6名だった。作詞・作曲の審査と発表をした後期の学生委員長は、3学年の4期生、杉原剛介氏(故人)。同期の岩田貞幸氏が総務を担当していた。広島でご健在の氏は、突然の電話インタビューにも気軽に応じられた。
岩田氏。「当時の防大には、1期生(田崎氏)が作った学生歌、同じく前川氏の応援歌、各大隊には固有の歌があった。いずれも元気のいい行進歌調だったが、在校生の間には自分たちで作った寮歌のようなものが欲しいとの雰囲気があったと記憶している」
当時の陸上訓練では、疲れた時や演習場帰り、隊歌演習として日本軍の歌ばかり歌っていた。そこで、勇ましい歌に代え、新しいキャンパスの誕生と、新しい住人による歌を作ろうという雰囲気が湧き上がったのかもしれない。逍遥歌の発案者は、中期校友会委員長の百瀬氏だとされる。
岩田氏の回顧を続けよう。「そこで校友会が、逍遥歌を募集することになり、校友会新聞にまず作詞の募集案内を出した。どんな内容だったかは、記憶してない。
いくつかの応募があったが、同期生の小長谷学生の作詞がすんなり決まった。審査選考は校友会の委員のみで、学校側や部外の専門家は関与してない。
続いて作曲を募集したが、初めはなかなか出なかった。締め切り直前、これも同期生の塩瀬君が2曲応募してくれた。これをブラスバンドで演奏してもらい、現在のメロデーにすんなり決まった。だから、記憶に残るようなエピソードはなかった。しかし、非常にいい歌詞であり、いいメロディーに仕上がり、選考委員としても自信を持っていた」
「ネットに掲載されている『前口上』はありましたか」との質問に、「逍遥歌以外にそんなものは募集しなかったし、応募作品にもなかった」「今も、気楽に逍遥歌を合唱して楽しんでいます」と、懐かしさが伝わってくる回答を頂いた。
応募 作詞・小長谷聡氏
逍遥歌の誕生余話の企画をまとめ、小長屋氏に電話で執筆を依頼した。ところが氏は静岡から出向いてこられ、「今はまだ書く気になれない」と固辞された。その際、昭和33年6月25日と、7月8日の毎日新聞コピーを提示された。女優・有馬稲子氏の防大訪問記と、大江健三郎氏の「防衛大学校生は世代の恥辱」発言が掲載された記事である。この事件が、逍遥歌の歌詞が誕生する背景にあり、それが氏の筆を鈍らせたのであろう。
そこで、筆者がインタビューしてまとめることで、ご協力のお許しを得ることができた。小長谷氏には、雑駁・浅学な質問に対しても丁重に「です、ます」で答えて頂いた。回答や口調にもそのお人柄がうかがえるので、そのまま掲載させてもらう。
「歌詞応募の動機は何でしょう?」「演習に行っても、軍歌しかありませんでした。また当時は、観音崎を回る40kmマラソンがありました。そんなとき、何か自分たちの歌が欲しいと考えました。3期生が卒業を控えた時期だったと思いますが、校友会紙で逍遥歌の募集を見ました。そこで応募した次第です」
「毎日新聞のコピーをお持ちになりましたが、有馬稲子女史の防大訪問記事への反発や、再軍備の流れに反対する大江健三郎氏の『防衛大学校生は同世代の恥辱』への強い反発があったようですが?」
「毎日新聞に山口進学生(6期生)がそれに対する反論―祖国日本のために黙々と専念している防大生―を投稿したところ、学校側から注意を受けたと聞きました。一方、毎日新聞はそれを掲載して『防大生は誇りか恥辱か』と言う論争を煽りました。
私たちは非常に悔しい思いをし、人文科学教室の上田教授に相談しました。先生からも、『今は歯をくいしばって耐えよ』との指導を頂きました。ゴミを出しながらきれいな家を誇り、そのゴミ集める人を蔑み貶めるような進歩的文学者やマスコミに対して悔しい思いをした時期で、それが歌詞につながったのです。(筆者注 歌詞の2番、「鉄腕鍛ふる若人の 高き理想を誰が知る」。3番、「真理の光身に浴びて 平和を祈る影長し」。4番、「星影寒く胸に入る、忍びて春を待ちながら」)
「後に大江氏はノーベル賞を受賞しますが、今も、ノーベル賞の選考基準は何なのかと、憤りを感じています。彼らに対する『こだわり』は、逍遥歌を汚すことになるので言いたくない。執筆を控えさせていただきました。それが正直な現在の心境です」
「作詞について伺います。鶯声凍る・・・に始まる文語調の語彙はいかにして学ばれたのでしょう?」「高校の教科に漢文がありましたが、その程度です。詩集は、島崎藤村の『若菜集』を愛読していました。当時、各中隊は短歌、書道、絵画等を展示発表する文芸活動を行っていましたが、それには積極的に参加していました」
「作詞は、すらすら書けたのでしょうか?」「何となく、書いたというか・・・構成は単純です。1学年から4学年の間の主要行事を入れる。四季折々の特性を出す。学生生活の朝昼夕夜を意識する。陸・海・空の思いを込める・・・で仕上げました」
「その後の逍遥歌の状況についてのご感想は?」「実はその後、防大に2回勤務しています。13期~15期生時の小隊指導教官と、20期生頃に学校企画室で学制改革を担当しました。その時、誰かから『3番の「チリ」は「霧」の間違いではないか』と指摘されました。作詞当時、台上は赤土の埃だらけ、教室から帰るとベッドに土埃が積もっていました。防大に再勤務した時は『緑のおかべ』で、昔の面影はなかったです。だから、時代と共に歌詞は変っていくのかなとの思いが強くなったのです」
「歌詞の最後を『アンドロメダが西に舞う』で締めるのは抒情的でいいですね」
「いやあれは、流星群を書いた抒情ではなく、ギリシャ神話の英雄に思い寄せました。
アンドロメダはケフェウス王とカシオペア女王との間に生まれた美しい娘で、女王が娘の美貌を誇って海の精女を蔑んだため海人の怒りに触れ、娘が海の海獣の餌食になろうとしたところをペルセウス王子が怪物を退治して囚われの鎖を切り、アンドロメダを自由の身にしたギリシャ神話の英雄に、防大の学生を重ね合わせたのです」
筆者は、この話を初めて聞いた。胸が締め付けられる思いがし、ギリシャ神話も知らずに歌ってきた不明を強く恥じ、次の質問までしばらく時間がかかった。
「最後に、後輩たちに一言お願いします」「歌詞も時代と共に変化します。3番の「たれか知る」は「だれが知る」に、4番の「4年・よとせ」は「よねん」に変化しています。時代に合った新しい歌を作られればいいですよ」
筆者は最後に、「作詞の素晴らしさ、作曲の心地よさは不滅です。防大が小原台にある限り、青春を燃やした証として歌い続けられるべきです」と答えるのが精いっぱいだった。
応募 作曲・塩瀬 進氏
奈良におられる塩瀬氏もお元気で、電話の質問に快く応じていただいた。しかしそのやり取りを「Q&A」で書くより、氏が数年前に4期生のホームページで書かれた文字・文章の方が、臨場感も伺えるのでそれを抜粋して紹介させて頂く。
抜粋¦¦やり場のない焦燥感と、鬱積したエネルギーを発散させるため、運動部(硬式野球部)の練習に励みすぎ、授業中も自習時間もほとんど夢の中で過ごし、落第ギリギリの超低空飛行を続けていた3学年のある日、校友会新聞『小原台』を開いたら、逍遥歌に応募した歌詞の入選記事が目にとまった。
逍遥歌を作るため、次は作曲を募集するとの案内と、入選作が紹介されていた。詩歌にあまり興味はなかったが、作詞者が同期の小長谷君であることに興味を覚え、第1節から読み始めた。
一度さらっと読み通したが、再度、行を追って読み進むうち、何とも言えない感動を覚えた。2度、3度と読んでいるうち、自然に頭の中で旋律の付いたメロディーになっていた。
今でも不思議に思うが、苦労して曲を付けたという記憶は全くない。小長谷君が書いたあのすばらしい詞は、書かれた時にすでにその行間にあの逍遥歌の旋律を持っていたに違いない。そしてたまたま、私の感覚が彼の琴線に触れて共鳴し、それを書きとめたのではないかと思えてならない。それはまた、混沌の時代に先駆けて小原台で起居を共にする若者の身が、感受することができる「魂の叫び」だったかもしれない。
そして更に不思議なことに、年を経るにつれ、自分が逍遥歌の作曲者であるという意識や自負が、次第に遠のいていき、あの逍遥歌は小原台上で、いつの頃からか誰かが歌いはじめ、ごく自然発生的に生まれた歌だったかのような、ほのかな追憶に代わっていた。
小長谷君とは教務班も訓練班も違ったので、親交はなかった。だが、彼の素晴らしい文学的才能に大変感心した。当時の防大に文科系の専攻学科はなく、1学年時の一般教養として人文学科が唯一の文科系だった。学生歌『海青し・・・』を作詞された1期生の田崎氏をはじめ、当代一流の文学的才能を発揮された先輩方は他にも多数おられ、これが防大生の文化活動の水準の高さを示していた。
その日の夜、例によって自習時間に飽きた私は、逍遥歌の入選作詞を読み返していたが、昼間のあの旋律がまだ頭に残っていた。単純なメロディーなので、作曲に応募するほどの自信はなかったが、何気なくノートに五線を引き、書き留めておいた。
そんなことがあって約1ヵ月たち、私は逍遥歌のことをすっかり忘れ、相変わらず野球の練習と居眠りの日々を過ごしていた。ある夜、自習時間が終わり、日夕点呼の少し前と記憶している。突然、同期生の岩田君が部屋に来て、「君は逍遥歌を作曲したと言ってたが、募集の締め切り日が明日なので、応募したらどうか。応募者が思ったより少ないので、今、校友会で手分けして集めている」と言った。
それではと言うことで机の中を探したが見当たらない。消灯間際にやっと見つけ出し、もう一度読んでみたが単純なメロディーなので、とても人前に出せる代物ではない。そこで別の旋律をつけ、もう1曲を準備して2曲のメロディーを岩田君に渡した。
岩田君がなぜ私のノートのメモのことを知っていたのかわからない。多分、同じ訓練班だったので、何かの時に自分がしゃべったのだろう。
それから2~3日後、同じ中隊(第3大隊第2中隊だったと思う)のブラスバンド部員だった3期生の則松さんが目を丸くして私の部屋に来られた。
「おい、君は、あの逍遥歌を本当に自分で作曲したのか?」と尋ねられた。私は、何か悪いことをしたのかと思い、「はい。一応私が書いたのですが、何か・・・」といいかけると、「イヤー、驚いたなー。おめでとう、君の曲が入選したよ。しかも2曲ともだ」
校友会ではブラスバンド部を中心に選考委員会を作り、作曲者の名前を伏せて全員で選んだ結果、最後に2曲が残り、それがいずれも私が提出した曲だったと、興奮気味に言われた。そしてその2曲のうち、最終的に選ばれたのが、なんと先にメモしておいた単純な方の旋律だったというわけだ。
私は防大学生として当時も今も、あまり模範的な人物ではなかったと反省しているが、思いがけず、逍遥歌の作曲者と言う大変な栄誉をいただき、防大卒業生の一人として、何とか母校の名誉を傷つけることなく、30有余年の自衛官勤務を全うすることができたと、深く感謝している。
そして折に触れ思い出すのは、あの偉大な槇先生の教えと、小長谷君の素晴らしい詩を生んだ原野の名残のある広々とした小原台の風景と、岩田君や選考委員会の方々のご尽力です。そして40数年(当時)もの間、歌い続けてくれた防衛大学校同窓生の皆さんの、小原台精神にも深く感謝したいと思っています¦¦抜粋終わり。
塩瀬氏のご所見を補足するため、幾つか質問させていただいた。「失礼ですが音楽の素養は何時身につけられたのですか?」
「自分は中学時代からバイオリンをやっており、湘南交響楽団とも関係があった。防大がダメなら音大受験だと考えていたこともあるほどの音楽好きだった」
「作曲の応募については?」「同じ部屋の岩田君に提出を催促されたので応募した。しかし、採用された曲は旋律が単純で、小長谷君の立派な詩に不似合いではないかとの不安が離れなかった。逍遥歌の入選発表会が体育館で行われた際も、壇上に小長谷君と二人で立ち、中央音楽隊の須磨隊長が指揮するフルバンドで見事に演奏される逍遥歌を聴いたが、果たして皆が歌ってくれるだろうかとの疑念はが残った」
「ご自分の作曲と認識されたのはいつ頃でしょうか?」「防大卒業後は、幹部候補生学校、富士学校(特科BОC)、航空学校(BОC操縦)を経て中方飛行隊(八尾)、第5飛行隊(帯広)に赴任したが、その間、逍遥歌のことはすっかり忘れていた。たまたま帯広に赴任してきた赤坂強君(13期生)が、『防大で皆が歌う逍遥歌の作曲者が先輩のお名前と同じなんですが、まさか...』という出来事があった。この時『ああ後輩たちは歌っていてくれてたんだ』と、何とも言えぬ感動を覚えた。あの入選発表から数年を経て、初めて逍遥歌の作曲者であったことを認識した」
「現在、楽譜には編曲岩井氏の名が入っていますが?」「レコーディングした際に曲の一か所半音を上げた箇所があり、そのため編曲の表記になっている。歌っている人にはあまりわからないし、逍遥歌としてのリズムには影響ないでしょう」
「この歌が後輩に歌い続けられていますが、ご所見を」との質問に、「我々の頃の台上は赤土のホコリが舞っていました。それから60年近くたちます。陸上自衛隊は海外にまで派遣され、立派に成長しています。このメロディを愛してくれ、時に歌ってくれている後輩の諸君に対し、深く感謝しています・・・」
「ネットに『前口上』が付けられていますが、ご存知ですか?」「当時はなかったですね。4期生会でも時々『逍遥歌には不似合いでは...』と話題になりますが、時の流れでしょうか」と鷹揚な対応を示された。
関係者の思い出、所見等
1期生・大東信祐氏、防大を卒業して任官、2年後に6期生の隊付訓練を真駒内駐屯地で引き受けた際、逍遥歌を初めて知った。その印象は、心地よいリズムと、思い出深い歌詞であり、後輩がこんな歌を作ったのかとの驚きだった。その後、防大生の指導教官も務めたので、一面で小原台上の変化も目にしつつ歌っている。
4期生・冨澤暉氏、岩田君と塩瀬君は私と同じ3大隊に、小長谷君は4大隊にいた。だから別に謀ったわけでも何でもない。偶然そうした才能に恵まれた仲間が、それぞれの動機に基づいて、協力した成果である。
この歌が作られた背景として、間接的に有馬稲子女史の防大訪問があったとされるのは、本当かもしれない。当時、前期の校友会学生委員長3期生の谷希夫氏が女史の防大訪問時の案内等を実施した。私どもはそれを羨ましく眺めていた。女史は毎日新聞の取材に応じ、「防大生は凛々しく、優しい」とほめそやした。全国の若者達のマドンナが防大学生を褒めたことに「これは危険」と見た大江氏が、「同世代の恥辱」とかみついたのだろう。まだまだ、「自衛官は税金泥棒」と罵られ、某一流女子大のアンケートで「防大生のもとにはお嫁に行かない」が多数を占めていた。
大江氏の見解に対し、防大生は大いに反発した。だが反論・発言の機会は与えられなかった。しゃべれない、やり場のない焦燥感はあったろう。小長谷君が「悔しい」といい、塩瀬氏が「鬱積した」と述べたのはそれを示していると思う。そうした気持ちを抑え、昂然と前に進みたいということではなかっただろうか。
塩瀬君は、バイオリンをこよなく愛する音楽家だった。BОCで富士学校に入校した時(航空科だったので野戦特科と一緒の教育を受けていた)、機甲科の歌として「吼えろエンジン」という歌を作曲してくれた思い出がある。その作詞はやはり同期の船木捷彦君が担当した。これら同期生が作詞・作曲した歌だけはこの年になっても空で正調で歌える、というのが自慢だ。
小長谷君は、控えめで温厚な文学青年だったと記憶している。ネットで逍遥歌に「前口上」が付けられているが、当時そんなものはなかった。彼があのような品のない言葉を使う筈がない。
その逍遥歌が、時を経るにつれ変化しているのは残念だ。1番、「小原台」のフレーズで音程が変わっている。原曲は、「オ」よりも「ハ」の方が高いのだが、後輩方は「オ」と「ハ」の音程を同じに歌っている。4番、「4年の波」の読み方が「よとせ→よねん」と変わった。最後の「アンドロメダが西に舞う」を、今は2回繰り返すが、初めは一回限りだった。
逍遥歌が発表された当時、普及活動としてブラバンの人達から食堂で教わったのかどうか良く覚えていない。まだ、レコードはなかったと思う。
16期生・井上廣司氏(元防大幹事) 学生時代、防大逍遥歌は、心にしみる歌としての記憶がある。入校直後に、逍遥歌と防大学生歌を教えられたが、学生歌の方は印象が薄く、学生間では「会食の歌」との呼び名が一般的で、親近感は薄かったように思う。
それに反し、逍遥歌は親しみを込めて歌われていた。当時は学生運動が盛んな時期でもあり、彼らに対する反発もあって、宴会など酒が入ると誰かが応援団の「前口上」をつけて歌ったものである。
自分が4学年になると、クラブ活動後、夕日が空を染めたりすると、曲の最後の「アンドロメダが西に舞う」の一節が心にしみ、卒業と言う文字を想ったものだ。
防大幹事として、30数年ぶりに母校に帰って感じたことは、防大学生歌が学生の間に浸透していることだった。私自身、年を重ねたためか、学生歌もいいなと感じた。
逍遥歌も歌い継がれていたが、我々の時代の様に集まれば逍遥歌というより、集まれば学生歌という印象だった。「前口上」も、その後に入校した女子学生が文句をつけたとは聞いていないが、今では少し言いづらい雰囲気ではある。
大江健三郎の国辱発言は、伝え聞いているが、逍遥歌との関連は知らない。今の防大学生も知らないと思う。
おわりに
素案ができた時、小長谷様から手紙が届いた。「愚作の件でお手数を煩わし、申し訳ありません」。そして、歌詞1番の「並木」がユーカリから欅(けやき)に代わったこと。3期生の卒業式で逍遥歌等を歌おうと槇校長に申し上げたところ、「卒業式にふさわしくない」といわれたこと。防大も陸軍士官学校並みに61期生が入校したこと。小原台に1期生が残された「緑こそわがやすらい」の記念碑が、いつまでも続くことを祈念する、と之内容が綴られていた。
小長谷氏が執筆を固辞された気持ちがわかるような気がした。多くの同窓生はこの歌を、「放歌高吟する寮歌」と勘違いしてきたのだ。だから防大の期か進むにつれ、宴会の歌、応援の歌、「前口上」の添付と、牡蠣殻を付けて純粋さを失わせてきたのではなかろうか。
「逍遥」とは、大地を歩きながら哲学することであり、赤土の小原台はそれにふさわしい場所だったが、今はない。自衛隊に対する国民の認識も、90%が評価する時代である。
「新しい革袋には新しい酒を」。4期生が作られた逍遥歌は、我々世代が胸に秘めておけばいいのかもしれない。それが、歴史に晒されるモノの宿命であろう。
はじめは簡単に余話を書くつもりだったが、関係各位の思いを知るにつけ、あれもこれもと長くなってしまった。拙い文を連ねたことをお詫びするとともに、ご協力をいただいた方々に深く御礼申し上げます。(2015.02.08)
防衛大学校逍遥歌
作詞 小長谷 聡
作曲 塩瀬 進
編曲 岩井 直溥
一 鶯声凍る風とけて
並木かげろふ小原台
北に都を見下ろして
南に磯の数え歌
青き裳に安らいで
花の香りを移さなん
二 船首に砕くる青き波
雲わき上がる海原に
鉄腕鍛ふる若人の
高き理想を誰か知る
遠く高楼かえりみて
共に奏でんかいの歌
三 塵も静かにをさまりて
紫紺に暮るゝ富士の峰
巻き雲あかく映ゆる時
思索は深し天地の
真理の光身に浴びて
平和を祈る影長し
四 星影寒く胸に入る
忍びて春を待ちながら
観音崎にたゝずめば
四年の波は夢のごと
木枯らしに和し笛吹けば
アンドロメダが西に舞ふ